2012.05.09

新しい先生♪

Img_6679 例年のように、南側の窓の向こう側にゴーヤを植えました。毎年ゴーヤのふさふさの緑のカーテンがサンルームを涼しくさわやかにしてくれていて、今年もぜひお願いしたいと、地場野菜をつくっているおばさんの手になる苗を植えたのでした。(写真は去年の夏)

ところが今年は1つ問題が。

同じ庭を中庭のような形で3軒の家が共有していて、その右隣のお宅の大型犬のわんこさんが、この冬あたりから、庭に誰かが入ってくるだけで激しく吠えたてるようになって。

そのおかげで、飼い主にあたるお隣さんの女性が大変困っているとのこと。立ちあがるとわたしの背丈ほどになる大きなアフガンハウンドの(み)さんは、窓の外を見て興奮して吠えたてるとき、カーテンをひきずりおろしたりしてしまうほどのパワーがあるそうで。。。

ゴーヤの水やりをしに外に出るなら、必ずや、ずっとわんわんわんわん、と吠えたてられるはず。

Photo前は(み)さんと庭で会うと、こちらへわーっと来てくれて、とてもラブリーで、わたしは(み)さんが庭を走る様子を眺めるのも大好きで、隣に暮らしててくれてることが、すごく嬉しかったのですが、最近はサンルームで洗濯物を干しているだけで、わんわんが止まらなくなる(み)さんに、お隣さんがどう思ってるかが心配になり。。。私の目下の目標は、お隣さんの感情の波風を立てないように、(み)さんになるべくわんわん言われないよう行動することなのです。

幸い、川口由一さんのところへ自然農の合宿へ行って教わったことのおかげで、水やりの回数を抑えることはできていますが、それでもまだ苗が小さいうちは、少し気をつけてあげないといけない。昨日は1日暖かくて雨が降らなかったので、今朝はじょうろをもって外へ出て水やりを開始しました。

案の定、(み)さんは窓辺に来て私を見つけると、わんわん!とあの低い大きな声で吠え始めました。

(み)さんは最近、目を見据えられるとなおさら吠える、ということはすでに知っていたので、顔はゴーヤのほうに向け、水やりを続けながら、心の中で親しみを全開にして「おはよう、(み)さん」とあいさつしました。

そうしたらとたんに、静かになりました。

ここ数日、大好きな本『動物はすべてを知っている』を久しぶりに読み返して、忘れていたことをたくさん思い出させてもらっていたところでした。動物は人間がことばや行動に表す以前の想念を、まるまま感じ取っている、ということ。動物の前で人間の想念は丸裸なのだということ。

すぐさまそれが証明されたような展開に、「これは単なる偶然か否か」と思ったりもしましたが、想念が丸裸なのだから、動物の前では最善の想念でいるように、と思いだし、そのまま親しみを全開にしたまま、水やりを続けました。

(み)さんはわたしが水やりを最後までやり終えるのを、だまって見ていました。

部屋に入る前に振り返って、(み)さんと目を合わせました。じっと顔を見つめたけれど、(み)さんのほうもわたしをおだやかな表情で見返してくれていて、吠えなかった。自分のチャレンジは、これが本当だと信頼することなんです、今日はそこをサポートしてくれてありがとう、と心の中で言いました。

「1年前には、このことが本当だと学ぶために、はるばるカリフォルニアまで行って勉強や練習をしたのに、ぜんぜんだめだめな自分です、ごめんなさい。どうかこれから、わたしの先生になって、わたしがこれを学べるように助けてください」とお願いすると、(み)さんはひとつまばたきをしました。

なぜか、その後、その場に立ったまま、涙がこみ上げてきて、(み)さんに見守られたまま泣きました。

* * *

習慣的反応というものが、あるということが、ひどくはっきりとわかりました。「本能」と言い換えられたりもすること。

わたしがデフォルトで疑ってしまう傾向、はっきりした事実が起きているのにそれを「偶然だ」「気のせいだ」「思いこみだ」と思ってしまう傾向。「動物や虫に高い知性や霊性があるなんて、気持ちが通じるなんて、夢物語り」と思う傾向。それは根深い習慣的反応なんだ、自分がそうしようと選んでいるつもりもないうちから、すばやく立ちのぼってくる習慣、すばやく立ち上ってくる衝動なんだと、わかりました。

『動物はすべてを知っている』の中に、蠅との友情談があるのだけれど、そこで著者のアレンさんが蠅のフレディーと交流するにあたって、1つだけお願いしていたことがありました。
顔、手など、肌の露出している部分を歩き回らないでほしい、ということでした。

そのお願いをするとき、アレンさんはフレディーに「ヒトの表皮上をそのように歩くと、わたしの種のメンバーたちの暴力的な気分と行動を誘発する傾向があることを、注意深く彼に説明した」そうです。そしてフレディーは1回たりとも、このお願いにそむくことはなかったとのこと。

アレンさんも、自分の中にある、生き物に対する古い固定観念や衝動が立ち上ってくることがよくあったと、本の中に書かれていました。そういうものが自分の中にある、ということを認めたうえで、上手に回避する方法を探したようでした。

わたしに必要なことも、そこのところの工夫だ、と心底思いました。

わんわんと吠えたてる(み)さんをうらめしく思ってしまったことがあったことを、謝りました。

同時に、もし、(み)さんやわんこ族のみなさんが、見慣れない人影を庭に見た時に思わず吠えてしまう、ということがあるとしたら、それも、種としての習慣的(本能的?)傾向のせいなんだと思いました。そういう習慣的反応をする時があるからといって、その生き物に、それ以外の高貴さや知性や霊性がないと断定するのは、やっぱりおかしい。

そうつくづく思いました。

人間のみなさんに、「人間以外の生き物やものには、人間と同等かそれ以上の知性や霊性がある」と言ったら、頭がおかしいと言われそうな雰囲気が、まだ実際にあるけど。。。

アレンさんが教えを乞うた、ネイティブアメリカンの方がきっぱりと言ったように、それは、人間以外の生き物やものに関する、人間のみなさんの「意見」です。「意見」を聞きたいなら、人間に聞いたらいい。けれど、人間以外の生き物やものに関する「事実」を学びたいなら、その生き物やものに聞くしかないです。

聞けば、今朝の(み)さんのようにみんな答えを示してくれる。。。昨日のてんとう虫や、のらねこのくろちゃんもそうでした。

すぐに人の「意見」にぱっと染まりやすい自分なので。。。行ったり来たりだけれど、見失ったらまた思い出す、を繰り返していこうと思います。

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2012.04.30

Img_2316このところ、道ばたの草たちが元気なのが、とにかくうれしくて仕方ありません。特にお気に入りは、江ノ電の線路ばたの草や花たち。

人の手で植えられ、お世話されている植物たちも、もちろんとてもきれいだけれど、のらねこのように自らのリズムで生きている野の草草が、最近はいっとう好きです。

ほとんど世話らしい世話をしていない、我が家の玄関まわりも、毎年、この季節になると、草草のなかに「これは去年見なかったよ?」という小花をつける草がいます。去年と同じのに会えると思っていても、会えなかったり。

Img_2331 急にすずらんが出てきて咲いたりしてるのも、うれしい。

冬のあいだ葉っぱを落としていた木々が、黙々と続々と緑の葉っぱを出し始めるのを見るにつけ、どんなことがあっても季節はめぐるのだなぁ、たくましいなぁと思う。

しぜん、もともとは、じねんといった、そのもののこと。。。人間vs自然というような図式の意識で切り分ける前の、あらゆる「おのずからなる」現象たちのこと。。。を思うともなく思っています。

近しい人から誤解されたり、理解されたなかったりしても、もうかまわないや、と思うこの頃。自分としては、珍しい展開です。誤解が先方にとって害になってないようなら、の話だけれど。

でもこうして思ったことを体の外へ出したい衝動は、まだ止まないな。いつものことながら、矛盾があります。

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2012.04.23

はるか昔へ、SOS

Img_2240草が元気にあおあおとしてきて、うれしいこの頃。自分にとっては、なかなかに難しい日々が続いていますが。。

うれしいことが、ありました!

数日前、ながながとやっていた仕事がやっと終わって、お祝だ♪と、うきうきしながら市民図書室へ行きました。そして、今日はなんでも好きな本を読んでいいのだな~と思って棚を見まわし、なにげなく目にとまった『大人の友情』(河合隼雄さん著)という本を借りました。

Img_2251 図書室を出ると、桜の花びらが風に舞っていて、手のひらをひらいたら、乗りました。毎年、風に舞う花びらをキャッチできたら、その1年は幸せ、とゲームのようにやってきたのだけれど、今年はほんとうにあっさりと、手のひらに乗ったのでした。

その夜、友達がブレンドしてくれた薬膳茶を「お祝茶」として飲みつつ、借りてきた本をさっそく読みました。エッセイなので、か るーく読める本でした。本の終わりのほうに、「人間以外のものとの友情」について取り上げた章があり、その中で、鎌倉時代に「島にラブレターを書いた」という僧侶のことが書かれていました。

あらゆる生き物や自然を愛する宗教者と言えば、最初に思い浮かぶのがアッシジの聖フランチェスコですが、この明恵上人という僧侶も、聖フランチェスコみたいだなー、と気になりました。しかも明恵上人は、夢日記をつけていた、とも書いてあり。。。

数日後、近所の図書館(市民図書室よりも収蔵書が多い)へ行き、明恵上人の本を探すと、同じく河合隼雄さんが、明恵上人にフォーカスして書いた本がありました。『明恵 夢を生きる』という本です。読み出したら、夢中になりました。

明恵上人にはいろんなエピソードが残ってますが、蜂が水に落ちて困っていたり、雀の子が蛇に食べられそうになったりしているところを、遠隔で察知して、助けを出したりしたそうです。

Photo_4 お弟子さんの筆による、明恵上人が木の上で座禅している絵が残っていますが、まるで自 然の一部のように描かれていて(人物以外の風景が画面に占める面積が多い)、明恵上人の足元ではリスが興味深そうに見上げていて、背後には小鳥が飛んでいます。

肖像画としても、肖像がこんなふうに背景に溶け込んでいるのは珍しいと思いますが、座禅像としても、小動物が一緒に描かれているのは異例だそうです。

ますます、聖フランチェスコみたいだ、と思っていたところに、明恵上人が晩年に本拠地としたお寺(栂尾山の高山寺)が、1900年代になってから、アッシジの聖フランシスコ教会と「ブラザーチャーチの約束」を結んでいたことを今しがた知って、またびっくり。

仏教とキリスト教とが、こうやって手をつないでいただなんて。世界で初めて、異宗教間で兄弟関係となっていたんだなんて。。!

実は自分は、祖父が仏教の僧侶で、でも幼稚園はフランシスコ会(聖フランチェスコの教えに基づく会)に属する幼稚園に行き、自分の宗教観はこのせいで早くから混乱させられてしまったのだと思っていたけれど、混乱から「つながり」へ行く道が、あるのかも、という気がしてきました。

* * *

人間が動植物よりも上、みたいなふうに言うところや、本当の神様は1人だけというところが苦手で、キリスト教は今もやや苦手です。

仏教も、やや抵抗があります。万物に神を見る神道のほうがしっくりきますが、その神道を壊してしまったのが仏教だと感じているからです。(でも神道もいろいろに利用されてきた歴史があって、軍人を神様にしたりするところはどうしても好きになれません。。)。

でも聖フランチェスコと明恵上人には、ものすごく惹かれます。

Photo_3 聖フランチェスコは、その風貌(腰紐に3つの結び目をつける、茶色のローブを身に纏うなど)がまさに古典タロットの「隠者」そのものですが、明恵上人もやはり、隠者を志向しつづけた人のようでした。一時期はじっさいに俗世を離れて隠遁しつつ修業したそうです。ただそれを続けたい想いとはうらはらに、人の世に戻らなければならないというプロセスが彼の人生に大きく働いてきて、それを観念して受け入れるんですが。。

聖フランチェスコがキリスト自身を慕ってやまなかったように、明恵上人もブッダ自身を慕ってやまなかった。。。それに2人とも、うたをつくるのが好きでした。しかも2人は同時代に生きていました。明恵上人は1173年~1232年。聖フランチェスコは1182~1226年。

興味深いです。

* * *

でもって、実は、この2人よりもさらに昔の人、老子が気になっています。。。
なかなか老子には簡単に近づけなくて、遠回りしていますが。。。

老子は。。。仏教に先んじて足るを知ることと殺生しないことよしとし、キリストに先んじて弱い者を尊び、ガンジーに先んじて非戦をよしとし、シューマッハーに先んじて小さきをよしとしてたことを、今さら知って、びっくりしています。

まだ端っこをかじっただけですが、老子の自然観、女性観も、おお、と思うことが多いです。

今をどう生きたらいいのか、途方にくれるばかりの自分は、はるか昔の人に助けを求め中のようです。。

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2012.04.07

楠の木

Img_2108 3月が終わるまでずっと、うすぼんやりとした意識のまま、まともなことがほとんどなにもできないまま、過ごしていました。

普通の生活に戻らなくちゃと、もがいてはいたのだけれども、仕事はほとんど手につかず、家事もほとんど手につかず、人と会いたくなく。

3月11日は、でも、近所のお寺が出発点の、地元のピースウォークに参加しました。午後2時46分の前から、大勢のお坊さんが、ずうっとお経を唱え続けていました。一緒にお祈りをさせていただいて、そのあとで、大勢のみなさんと一緒に、鈴を鳴らしながらピースウォークを歩きました。

子どもさんたちも一緒に元気に歩いていて、明るく言葉をコールしながら歩くよう促されもしたのだけれど、自分はほぼずっと声も出ず、意識は大変に内向きになったまま、歩きました。目玉の裏側が、涙でいっぱいになっているような、妙な感覚があり、涙は目玉の裏側に溜まることができるのか、と初めて知りました。

それから3月が12日、13日、と続いていく中で、いちねんまえの記憶が、バックグラウンド再生を続け。。。海の底にうずくまっているような日々が続きました。

* * *

4月に入って、ようやく、水面にまで浮上して、浜へ、上陸できました。

そういう星周りだったのかもしれない(水星も逆行していたし)とも思うし、でも、浮上のきっかけも、思い当たったりしています。

まだ風が寒いけどよく晴れていた4月1日、あてもなく自転車に乗って、外へ出ました。なんとなく、近所の神社に足が向きました。ふだん神社めぐりなどはしないほうなのだけれど。。

そこの神社は、今年に入ってから初めて行ってみた神社。場の気配がひろやかで、すがしくて、湧水も出ていて、すごく気に入ったのでした。特に、奥のお宮にお参りして頭を下げると、頭がスッとした空気のかたまりに浸される感じで、気持ちよかったのでした。

Img_2075 あそこの神社、気持ちよかったんだよなと思って、ふたたび立ち寄ってみると、本殿にお参りしようとしたときからもうすでに、左の向こうにある奥のお宮を囲むように立っている楠の幹が、日の光に美しい縞模様を見せていて、惹きつけられました。

本殿にお参りをして、奥の、小さい小さいお宮のほうへ行くと、楠の木々が立っているあたりはやっぱり、空気がスッとしていました。

海の中で、突然に違う温度の水の流れに出会ったときみたいに、はっきりとした違いがあります。

楠の幹に、手を当ててじっとしていると、ぼわんぼわんと手のひらに響いてくるものがあって、ものすごく暖かい。なんて暖かい。。 

涙が出てきて、そのままぼおっとしていたら、背後に7歳くらいの男の子がひとりでお参りにやってきていました。

気づいて、道をゆずったら、男の子は柏手を打って、正式なやり方でお参りをして、また小走りに去っていきました。

わたしもお参りをして、また楠に少しくっついて、それから帰りました。

おかしなことだけれど、楠と一緒にいると、最近ずっと感じることのできなかった、感謝の気持ちが体の奥深くから、次々に湧いてきました。

Img_2084 境内を出て、自転車置き場に戻ると、その隅に黄色いミモザが咲き始めていました。

ミモザ、すごく好きな花。

ミモザのそばにあいさつに行き、思い出していました。

何年も前、ある1本の楠の木と、出会ったとき、橋渡しをしてくれたのが、満開に咲き乱れたミモザの木だったこと。。。

その楠の木とは、それからずっといろいろな相談ごとにも乗ってもらい、なぐさめもらったり元気づけてもらったりしたのだけど、あるとき切られて、そのあとは、その土地に新しくテラスハウスが建って、地面はコンクリートの下になり、その木が建っていた場所は、駐車場になったのでした。

あれから、切られた木はどこへ行くんだろう、と何度も考えた。

その後、都心の職場で働いていたときは、そのそばにあった公園の楠たちや、前に住んでいた町では、家の近くの大学構内の楠たちと、なにかが通じるような瞬間が数回あって、そのたびに、あの切られた楠の木を想いました。

そして、夢の中でだったか、プロセスワークのワークをしている中でだったかで、「楠ネットワーク」のことを知らされました。

地球上の楠はみんな、楠ネットワークでつながっていて、みんなで協力し合っている、と。

少し前に読んだ小説に出てきたサボテンが、「サボテンネットワーク」みたいなものの中にいるという記述があって、この小説家はどうも好きになれない、けどこの部分は、私が知らされたこととおんなじだ、と思ったことも、思い出しました。

今の家の、寝室の窓からは、隣の家の楠の木が見えます(というか、その楠しか見えない)。朝目覚めてカーテンを開けると、いちばんに目に入るのは、空とこの木。去年、放射性物質をはらんだ風が吹いたとき、どこにも逃げられないこの木に、申し訳ない、と心底思ったことも、思い出しました。

でも、神社の楠に触れて、だいじょうぶなんだなぁと感じた。。

絶望感だけがどこまでも広がっているような日々に、気力を取り戻すきっかけを、逆にもらってしまいました。

感謝しています。

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2012.03.15

。。。

仕事も、確定申告も、手に着かず、ここしばらくは、海の底にうずくまってるみたいな日々です。

中国語の勉強以外、なんにもやる気がおきなくて、どうしちゃったんだろう自分。。。

人との接触も避けたくなっています。

ずうっとひとりで、ただ、音楽を聞いたり、海を見たりしています。

なにかから、逃げているのだろう、とは、思っていて、そのなにかとは、たぶん、一年前のこの時期の記憶かな、と思っています。

目玉の後ろ側に涙がいっぱい溜まる、という現象があるんだと、知りました。

もうひたひたに涙があふれているのに、表側にこぼれてこないで、目玉の裏側にずうっと溜まっていくんですね。

あれは、わたしでない誰かが、泣いている、ようなふうなのかもしれない。

社会的にダメ人間な自分を叱咤する自分がいます。

個人的には、経過をじっと見てる自分もいます。

宇宙的には。。。今の自分のありようは、どうなんだろうな。。

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2012.03.04

なつかしく、あたらしく

Img_1688 毎年2月は少し頭がヘンになって、いつもより大胆に行動なことをしだす自分だけれど、今年もやっぱりそうでした。。。

ようやくほっとひとつ、落ち着いて、久しぶりにここに書きたいなと思ったけれど、2月にあった出来事は、どれも鮮明に輝きながら記憶の水平線の上に散らばっていて、どこから手をつけたらいいかわからない。。。

とりあえず、まぶしさの少ない、今日のことを書いて、も少し落ち着こう思います。。

今日は、ほんとうに久しぶりに針仕事をしました。大好きゆえに激しくくたびれていたシャツの外科手術。

相方のプロポーズに答えた日に着てたシャツだから。。少なくとも9年は着ているシャツです。買ったのはそのずっと前だから、もっとだ。。

ここ数年、靴下と下着以外の衣類はもっぱら、いとこや友達からもらうか、近所にある途上国支援の古着屋さんで買うかで、思いどおりのものがすっかりそろってしまう状況で。。新品を買うことがほとんどないので、思えばこのシャツは、今ある衣類の中でも「自分で新品を買った」数少ないアイテムです。

新品を買ったとはいっても、ぜんぜん上等だったわけでもなんでもない、普通のシャツですが(汗)。

Img_1906 首周り、ボロボロ。。。そして袖口も、ボロボロ。Img_1911_2 ダブルガーゼ生地が破れてめくれてきてます。

めくれてきているところに、布を新しくかぶせてしまおう、という方針に決定。

かぶせる布を探して、ハギレ箪笥を探ると。。。ほどよくくたびれた麻布がありました。真新しすぎる布だと、くたびれたシャツ本体との相性が悪いので、これはちょうどいい :)

5年前の旧正月前に、ダイニングチェアの布を麻布に張り替えたときの、その布。つまり5年間椅子の座面としてがんばってくれてた麻布です。

ダイニングチェアは、しみが落ちなくなったので、この暮れに新しく張り替えていました。
Img_1294 Img_1295
(←ちなみに。。今回は、猫のにゃみちゃんのためにベッドカバーをつくろうと思って買っていた、大判のキッチンタオルを椅子に張ってしまいました。にゃみちゃん亡き後、使われないままあったのですが、意外と合いました。)

前回張っていた麻布は、裏からビス留めした場所に穴はあいてるし、座面だったところにしみもついてましたが、いまだにしっかり丈夫な麻布だったので、一応きれいに洗濯してとってあったのでした。

おしりにしいてたものを、首周りや袖口に。。というのは抵抗あるような気がしないでもないけれど、でもやっぱり、このままでは使えない状況のこの麻布を活かしてあげられる、いい機会だな、と思いました。

Img_1913 穴や汚れをさけて、布の織り目に対して45度の角度で、帯状にカット。こうするとどんな布からもバイアステープをとることができます。(バイアステープは伸縮するので、首周りなどカーブのあるところにきれいにフィットします)。

Img_1907 Img_1908 ぐるりと首周りに布を留めて、あとはチクチク手縫いするだけ。

シャツ生地のダブルガーゼも、かぶせる布のリネンも、どちらもスイスイ針が通るので、楽しかった♪

針が通りやすい布地での手縫いは、ほんとに楽しいです。音楽を聴きながら、ひたすらチクチクしていると、時計を持った灰色マンに追いかけられてた日々からすっかり離れて。。ほっこりします :) 『千と千尋』の「ぜにーば」の家に行ったときみたいな?

Img_1910 できあがり。やぶれは表側は襟の上半分だけだったので、上半分だけをくるむ感じにしました。

裏側は全体をくるんだので、第一ボタンの穴がふさがりましたが、第一ボタンは以前から留めずに着てたので、このまま放置 :)

Img_1914_3 袖口は裏側のダメージが少なかったので、表も裏も半分だけくるみました。ボタンも今までのままで問題なしです。

手術、無事成功 :) だいたいテキトウにやってしまうので、失敗するときは失敗するのだけれど、今回はうまくいきました。

* * *

ストーブに蒸し器を乗せておいて、巨大蒸しパンをつくりつつ、ほおばりつつ、ゆっくり手仕事できた1日でした。

しかしシャツ本体も、かぶせた布も、長くわたしとともにいてくれてるImg_1915 布たちなのだなあと、書いてみて改めて気づきました。

いつのまに、こんなに月日が経ってたんだろうって、浦島太郎みたいな気分です。

これから、どこへ行くんだろう?

と思ったら、「波間にて」という曲が、頭の中、流れだしました。

クラムボンの原田郁子さん作詞で、おおはた雄一さんの作曲。すごく好きな曲です。こんな詞。

あふれだした思いが 集まって 河になる
このまんま ゆきなさい なつかしい あの海へ

ずっと ずっと 先のこと

願いながら ゆきなさい
このまま ひとりで

あふれだした思いが 集まって 河になる

このまんま ゆきなさい あたらしい 彼の地へ

ずっと ずっと 昔のこと

思い出しながら ゆきなさい
このまま みんなで

ららら らららら 河になる

ららら らららら 河になる

先週、卑弥呼の神殿跡地で自然農でジャガイモの植え付けをする、という体験に恵まれて、それから、この島の昔を思って、北山耕平さんの『ネイティブ・タイム』という先住民の目でみた島々の歴史本を読み返していました。

卑弥呼の登場する時代にいたるまでの間にも、ものすごくたくさん、人は海に、陸に、移動を繰り返してきていて、自分がはるか昔だと思ってたことの、さらにその前に、こんなにもいろんな積み重ねがあったのか、とびっくりしました。

先へ進んだり、戻ったり、とどまったり、いろんなチョイス(またはチョイスのない瀬戸際さ)がその時その時にあったんだろうなと思いました。

今、東北では移動する人、した人、がかなりいて、わたしの近辺でも、移動する人、した人の知らせをたくさん受けていて、特にリアルに、転換期感を感じてます。

自分は、どうするんだろう。今は、未知の風を頬に受けて、じっと立ってるようなふうです。この風の読み方を学習しないとなぁ。。

PS 北山さんは、今どうされてるだろか。。最善をお祈りしてます。


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2012.02.06

覆われる

Photo 1月にあった、脱原発世界会議。会場のボランティアスタッフとして、ほんのちょこっと関わらせていただいきました。

大勢の人が集まる場が苦手なうえに、一度に複数のイベントがあちこちで起こるようなイベントも苦手で。。。しかもボランティア仕事の担当になった場所も、苦手分野な場所で。。。プチパニック状態になっていました。

休憩をもらえたときに、会場内を少し見てまわったときも、ものすごい人人人に圧倒されて、1つ1つのブースやイベントはすごく興味を引かれる内容なのに、あまりまともに見れませんでした。

そんな中、4階の一番奥(わりと人の往来の少ないスペース)で、広河隆一さんのチェルノブイリの写真展示を見ました。

大きく引き伸ばされた写真1枚1枚の前に立って、見ていたら、こころの中がしん、と静かになりました。

中でも、今も心に残っているのは、青空の下、住んでいた人が避難した後の一軒家を、植物が覆っている写真。

写っている事実は、あまりにも悲しいものなのに、この場所を「美しい」と感じてしまいました。そう感じる自分が、自分で呑み込めず、少し動揺しました。

* * *

その後、台湾に出かけたわけですが。

Img_8411_2 1日、台北から南部の都市、台南へ足を伸ばしました。台南は南国感のある街で、昼間は半そでになれるほどあたたかで、海に接しているため寺院には海の神様がいて、古い建物も多く、静かでした。

ガジュマルの大樹が気持ちいい日陰と木漏れ日をつくっている、古い洋館のテラスで数時間、のんびりした後、ここらへんの地区で一応「観光名所」となっているらしい「樹屋」という場所へ行ってみました。

建物を木が覆ってしまっているのが見もの、ということらしかったのですが、行ってみたら想像をはるかに超える規模の大きさに、びっくり。

Img_8425Img_8418_2 大きな石造りの古い倉庫棟の、中も外も、巨大ガジュマルに覆われておりました。

あまりにものスケールの大きさに、笑いがこみ上げてきました。もうこうなると、建物の中にいるのか、木々の中にいるのか、区別つかない、くらいの感じ。

Img_1450 Img_1454 Img_1457 建物の中に、鉄の階段や回廊がつくってあって、いろんな角度や高さから見たり体験したりできるようになっていました。

その日は平日だったけれど、春節(台湾のお正月)前だったからか、わりと大勢の観光客が老若男女来ていて、みんな楽しそうに写真を撮ったりしていました。

Img_8429 Img_1462_2 この場所は、今回の旅の中でも、いちばん陶酔的に楽しい場所でした。

となりの芝生広場では、野良わんこさんたちが、だんごになってころげまわったり、まったり眠ったりしていたし。。。

* * *

帰国して、振り返ってみて、脱原発世界会議で見た、あの広河さんの写真に感じた美しさと、「樹屋」で感じた陶酔とのあいだに、関係がありそうな気がしました。

そこに、自分の個人的な真実があるんだろうな、と思った。まだうまく言葉になりませんが。。

Img_1589 台北で「ようやく自分の居場所に近い場所にめぐり合えた!」と感じたのは、学生街のあるエリアに行ったときだったのですが。

そこをぷらぷら歩いていたら、外も、中の入り口部分も、びっしり、鉢植え植物で覆われた建物に出くわしました。

鉢植えというか、正確には、「軍手植え」も多かった。。。

思い切って奥まで入ってみましたが、お店らしきものの扉には「ダイビングなんちゃら」と書かれていたし、でも窓ガラスの向こうはちっともダイヴショップではなかったし、結局なにをしている場所なのかは謎でした。

植物でもしゃもしゃに覆われていて、圧巻でした。でも1つ1つは手入れされ、管理されている鉢植え(軍手植え)。樹屋の野放し状態とは違いました。樹屋の場合、木に自分の意志がある感じというか、主役はもう建物ではなく木のほうで、「建物が植物に覆われている」んじゃなくて、「植物が建物を内包している」という、その感じが、大きかった。。。

 

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2012.01.31

新年快樂!

Img_8305 旧暦の暮れに、台湾に連れて行ってもらいました。写真は台北の喧騒のさなかにぽっとある、ニニ八公園で、平日朝、ベンチでくつろぐご老人カップル。

中華圏の国々では、お正月というのは旧暦のお正月(春節と呼ばれています)。今年は1月23日。古きよき暦にサイクルを合わせていて、うらやましいです。。

Img_1504 台湾では、春節には、パイナップルに赤いリボンをつけて、飾るようでした。日本の鏡餅の位置づけかな、という感じ。パイナップルのほかに、おおきなポンカンみたいなのにリボンをつけたのも売られてたっけ。

Img_1507 あとは、昔のお金の形をかたどったお菓子や、赤い包みのお菓子などもよく見かけました。

春節前は、そういういろいろな「お正月用品」を売る夜市が立つというので、そこものぞきにいきました。ものすごいにぎわいで、深夜までみんなエネルギッシュ。。もうこれは市というよりかは、お祭り騒Img_1387_2ぎ、という感じ。Img_1394 Img_1395

店番の多くが学生バImg_1402_2 イトさんとおぼしき若者たちで、それがまた、みんなとても楽しそうに元気にやっているのでした。

Img_1389 猫連れ、犬連れの店番の人も幾人もいました。この写真の、商品に埋もれるようにそこにいた猫は最初ぬいぐるみかと思った。。。

売り子さんたちはみんなわいわんどんどんお客さんに声をかけてきます。それはもう元気。

売られているものも、いかにもお正月用品なものあれば、これは別に普通の日用品では?これは普通の夜店屋台では?というようなのも、いろいろありました。台湾産のイチゴのカップ売りを買って、ほおばりつつ見て周り、カタコトの中国語でわいわいやりつつ、量り売りの台湾産黒皮ピーナツやら、お年玉袋やら、「喜」の字が2つ並んでる絵柄のスウィーツやらを買いました。楽しかった!

この春節用品の市でもそうでしたが、普通の夜市も、毎日とか毎週とか同じ場所であるはずなのに、ものすごい人でにぎわっていて、おどろきでした。そして、そのにぎわいの中にいると、それだけでなんだかわくわく楽しくなってくる。。。エネルギーのおすそわけをもらえます。

Img_1482_2Img_1483Img_8442 台南の花園夜市は満員電車並みに混んでいて、私は人ごみが超苦手なのに、なんだか面白くなりました。屋台ののぼりが夜空に向かってそびえたつさまは、さながら「夏の陣」といったふうで。。。Img_8446_2

連日こうやって、にぎにぎした場所に老若男女みんなで繰り出して過ごしているなんて。。なんて元気なんでしょう。。ここでデート、という設定のカップルも大勢いたようすでした。人ごみではぐれないように、思わず手を握らないと。。というような状況なので、デートにはぴったりかと (^^)

台湾の人は、夜市での子ども連れはもちろん、朝昼夜を問わず、屋台の並ぶ「美食区」でも、おしゃれな学生街のカフェでも、おしゃれでちょっぴり高級なイタリアンフレンチのレストランでも、子どもやお年を召した方がみんな一緒に、どうどうと来店していて、お店の人も快く迎えていたのが印象的でした。

Img_1531 さらに朝市では、車椅子を押してもらってやってきていたお年よりにも3人以上遭遇しました。病院に入院中とおぼしき、点滴チューブをつけたままのご老人(自力で歩ける方でした)も、人でごったがえす朝市で見かけました。

車椅子の人が通るときも、誰もじゃまそうにしてなかったです。

Img_1516 朝市で、「春聯」と呼ばれるおめでたい言葉を赤い紙に書いたものを売っている屋台で、どれにしようかあれこれやっていたら、買いに来た別のお客さんから「新年快樂♪」と声かけられました。その方は知的障害のある方のようでしたが、ひとりで買い物にいらしてました。

オールインクルーシブで、みんなで楽しんじゃう文化があるようでした。すてきだなあと思った。

* * *

Img_1338 あともうひとつ、印象に残ったのが、犬と猫が、すごく自由で幸せそうだったこと。

東京近辺では最近はもうのら犬はとんと見かけなくなりましたが、台北や台南には、いました。そしてわんこさんたちは、人が大勢行き来する駅のまん前の歩道や、観光名所の建物脇の歩道、川沿いの芝生の空き地などで、なんともまったりと、眠ったり、みんなでImg_1467 じゃれあって遊んだりしていました。

Img_1476 のら猫も、街角で姿が見えたときにちょっと声をかけたら、振り返って「にゃあ」と返事をしつつ、わざわざこちらに戻ってきてくれるほど、人懐こいというか、人を怖がらないのでした。きっと街の人から、よくしてもらってるからだろう、と思った。。。

Img_1595日本の猫カフェは、じつは台湾が発祥の地だったそうで、その元祖ねこカフェといわれる「極簡」というカフェにも行ってみました。

猫カフェという言葉はやや間違いに感じるほど、「猫が主」という感じがあまりない、ふつうのおしゃれなカフェでした。そこにたまたまいっぱい猫がおります、というふう。

Img_1603 お客さんたちは、なるべく猫のじゃまをしないように過ごしていました。猫がでんとテーブルの上に座ったら、その前のティーポットに手を伸ばして注ぎ足したいときも、なるべく猫の迷惑にならないようにそっと手を伸ばしたり。

ひざの上にずうっとキジトラ猫を乗せて本を読んでいたお姉さんは、トイレに行きたくなったとき、丁寧に猫に降りてもらっていました。トイレから戻ったとき、さっきまでの自分の席がキジトラ猫に占拠されているのを見ると、黙って向かい側の席に移動していました。

Img_1611注文された飲み物をカウンターでつくっている店員さんたちも、カウンターのあちこちにねそべる猫たちをよけて仕事をしていたし、カップをあたためる機械 「カップウォーマー」に猫が手をつっこんで暖をとるのも、そのまま黙ってそうしてもらっていました。「そのカップはお客さんの唇にふれるんだから、そんなところに手をつっこんじゃダメ」とか言わない。

Img_1596 雑貨を売ってるコーナーでは、ハガキとかノートとかカレンダーが並んでいる、その同じ棚の中に猫棚もあって、ハガキのとなりで猫がそこここに寝ていました。

見事にピースフル&自然な共存ぶり。。

猫は完全に場に溶け込んでいて、存在がでっぱりすぎていなかったし、お客さんの猫への接し方も、レスペクトがあって、かといって特別扱いもしすぎずで、ぜんぜんでっぱりすぎてなかったです。

小さい子やお年寄りをどんな場でも排除せず、自然に一緒にいると同じ感じで、猫とも自然と一緒に同じ場を共有する感じでした。

カフェの猫たちは、「差不多」(ほとんどが)元流浪猫だそうでした。”カフェの猫”になってからも、外へ散歩へ行くのは自由のようでした。(ただし猫ドアはないので、出たいときはお客さんの店の出入りを待っていた)。

Img_1355台湾、またすごく好きになりました。それに、旧暦という昔ながらの暦に沿って暮らしていく感じも、また、すごく身になじみはじめています。

西暦でない時間を軸にして、英語ではない言語を共通語にして、独自の文化を繰り広げている中華圏の人たち。まだちょこっとかいまみただけだけれど、すでに「わー、こんな世界が広がっていたのか~」と今まで知らなかった新しい景色がぐわんと広がる感じに、驚きを覚えています。

漢字ばかりが並ぶ街並みひとつとっても。。かっこいいです :)

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2011.12.27

みかんず & love & joy

Img_1174 昨日は午後、この写真の右奥にある小さいみかん畑で、大好きなともだちと一緒にみかんをもいで過ごしました。文字通り鈴なりになったみかん。放射能検査で安全を確認してもらったみかんたちです。

Img_8138Img_8148Img_8158木に登って、もいでもいで、日が暮れるまで楽しみました。

そして家の軒先に運び降ろしたたくさんのみかんのヘタを短く切る処理を、暗くなって手元が見えなくなるまで楽しみました。

(頭の中で流れてたのはスピッツの「みかんずのテーマ」。。。♪がんばってやってみよう、上向いて。。ミカンズ、俺たち、虹の橋をわたろう。。。♪)

楽しかったな。みんなでそのあと食べたおゆうはんも、おいしかった :)

今日は午後から、珍しく少しベッドで横になって休みました。

体調が、ゆらんゆらんしていて、いろんなことをやらなくちゃ、と気持ちは焦るものの、体が動かず、ギブアップ。意識にまとまりがなくなって久しく。。自分の人生(?)が毎分ちれぢれに散っていくのを眺めているようなところがある。。

来月から青森・六ケ所村の核燃再処理工場の試運転が約3年ぶりに再開する運びだというニュースを今日、見ました。

気持ちが折れそうになる。やめてほしいと願う。どうしたらいいのか焦る。きっと止まる、大丈夫と思う。。いろんな感情がまぜこぜにやってくる。。

放射能関連のニュースもそうだけれど、触れるたびに、いろんな感情がまぜこぜに湧き上がってきてしばし息が止まる。胸にたまったそれらを、ぐっと下腹に気をこめて支え、よーし大丈夫となるまでホールドする。そしてまた気を取り直していく。そういう段取りになっているこの頃。。。

* * *

Img_1165 今年のクリスマスの礼拝で聞いたお話。(相方のお母さんが通う教会に毎年クリスマスにだけおじゃましているのだけれど、今年は初めて、イブではなくてクリスマスデーの礼拝に参加させていただいて)。

一度死んで、また復活するという、あのモチーフはつまり、罪の中にある自分が死んで、信仰の中に生き返るということなのだと知りました。

イエスさまのたどった奇跡を、ほんとうに心から信じて受け入れることができるかどうか、に信仰がかかっている。奇跡を受け入れることができることがつまり、まどろみの中に、罪の中にあった自分が死んで、目覚めの中に、信仰の中に生き返ることになる、ということ。。

わたしはクリスチャンではないけれど、「奇跡を信じることができるかどうか」(放射能にかんする奇跡、原発や核の再処理工場にかんする奇跡)が今の自分の生活にとってリアルで大きなウェイトを占めていて、なぜかこれは同質のことのような気がしたのでした。

牧師さんが祈りの言葉の中でおっしゃっていたこと、正確な言葉は忘れたけれど、おおよそこんなようなことでした↓。

「今年は原発事故を通じて、わたしたちひとりひとりが犯してきた罪が明らかになった年でした。神さまどうぞ、科学技術を過信して多くの犠牲を強いてきたこの生活を私たちが改め、素朴に手を動かし天の神さまのほうを向いて日々を送ることができるよう、私たちをお導きください。」

じつは、「わたしたちはみな罪の中に生まれてきた」というキリスト教の前提がずっと好きではなかったし、厳格な教えや怖い情景描写や、光をたたえ闇をさげすむ思想も今も好きではないのだけれども、すべて、そのような言葉遣いになっていった文化的背景があっただけのことで、教えのエッセンスには、へんな裏暗さも厳しさもジャッジメントも価値の偏りもなかったのかもしれない、と初めておなかの中でそう感じました。

むしろ、罪を悔い改めれば、必ず許される、という部分に、おおらかさを感じました。ハワイのフナに近いものを感じた。というか、フナとキリストの教えは、もともと同じルーツのものだったようにも思う。。。(フナの教えの上にキリスト教が後からかぶせられた、と思っていたこともあったけれど)。

罪の中に生まれた、というのは、無明の中に生まれたというだけのこと。。。気づかずにいることの多さを、知らせてくれているだけなんだろう。。闇も無明を指しているメタファー、光は気づきのメタファーでしかないんだろう。。。だから白いものが優れていて黒いものが劣っているとか、光や意識が優れていて闇や無意識が劣っているというような図式になる必要も、そもそもなかったんだろう、と。。思うことができそうです、今なら。

優劣は関係なくて、ただ、気づきを持てば思いも行動も現実も変わる、というその現象自体をゆび指してるだけなんだろう、と感じました。

これまでずっと、真っ黒な宇宙空間の中は、ベルベットのような、やわらかくてあったかい質感の闇で満ちてるんだろう、と想像していて、なにもかもを照らし出す透徹した光には、冷たくて近寄りがたい厳しさを覚えていたようなところがあって、生きていくなら闇の生き物たちと生きていきたいと、思ってきました。光の国に生まれて永遠の命をもらうなんて、遠慮したい、と。それで長い長いあいだ、キリスト教とは距離を置いてきたけれども。

偏見と解釈と手垢のついた言葉の中に埋もれているなかに、なにかもっと違うものがあるのかもしれないと思う。。

もう偏見に侵されたまま、世界を切り刻んでるわけにはいかないというような気持ち。かたくなになにかを拒みつづけていられないような気持ち。

いとしさの中にいることのほうを、選びたいみたいです。

ラブジョイという名前の彗星がいま、さそり座方向に今、光の尾っぽをなびかせてるそうで。。。loveとjoyが導く突然変異が、起きてるってことだったりして? (写真は国際宇宙ステーションから撮影されたラブジョイ彗星、下方に見えてるのは地球の大気圏)。

ちなみに、今月16日には、lovejoy彗星は灼熱の太陽の大気圏に突入後、無事に生き残って、天文関係者を驚かせたそう。

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2011.12.24

冬のごあいさつ

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