みかんず & love & joy
昨日は午後、この写真の右奥にある小さいみかん畑で、大好きなともだちと一緒にみかんをもいで過ごしました。文字通り鈴なりになったみかん。放射能検査で安全を確認してもらったみかんたちです。
そして家の軒先に運び降ろしたたくさんのみかんのヘタを短く切る処理を、暗くなって手元が見えなくなるまで楽しみました。
(頭の中で流れてたのはスピッツの「みかんずのテーマ」。。。♪がんばってやってみよう、上向いて。。ミカンズ、俺たち、虹の橋をわたろう。。。♪)
楽しかったな。みんなでそのあと食べたおゆうはんも、おいしかった :)
今日は午後から、珍しく少しベッドで横になって休みました。
体調が、ゆらんゆらんしていて、いろんなことをやらなくちゃ、と気持ちは焦るものの、体が動かず、ギブアップ。意識にまとまりがなくなって久しく。。自分の人生(?)が毎分ちれぢれに散っていくのを眺めているようなところがある。。
来月から青森・六ケ所村の核燃再処理工場の試運転が約3年ぶりに再開する運びだというニュースを今日、見ました。
気持ちが折れそうになる。やめてほしいと願う。どうしたらいいのか焦る。きっと止まる、大丈夫と思う。。いろんな感情がまぜこぜにやってくる。。
放射能関連のニュースもそうだけれど、触れるたびに、いろんな感情がまぜこぜに湧き上がってきてしばし息が止まる。胸にたまったそれらを、ぐっと下腹に気をこめて支え、よーし大丈夫となるまでホールドする。そしてまた気を取り直していく。そういう段取りになっているこの頃。。。
* * *
今年のクリスマスの礼拝で聞いたお話。(相方のお母さんが通う教会に毎年クリスマスにだけおじゃましているのだけれど、今年は初めて、イブではなくてクリスマスデーの礼拝に参加させていただいて)。
一度死んで、また復活するという、あのモチーフはつまり、罪の中にある自分が死んで、信仰の中に生き返るということなのだと知りました。
イエスさまのたどった奇跡を、ほんとうに心から信じて受け入れることができるかどうか、に信仰がかかっている。奇跡を受け入れることができることがつまり、まどろみの中に、罪の中にあった自分が死んで、目覚めの中に、信仰の中に生き返ることになる、ということ。。
わたしはクリスチャンではないけれど、「奇跡を信じることができるかどうか」(放射能にかんする奇跡、原発や核の再処理工場にかんする奇跡)が今の自分の生活にとってリアルで大きなウェイトを占めていて、なぜかこれは同質のことのような気がしたのでした。
牧師さんが祈りの言葉の中でおっしゃっていたこと、正確な言葉は忘れたけれど、おおよそこんなようなことでした↓。
「今年は原発事故を通じて、わたしたちひとりひとりが犯してきた罪が明らかになった年でした。神さまどうぞ、科学技術を過信して多くの犠牲を強いてきたこの生活を私たちが改め、素朴に手を動かし天の神さまのほうを向いて日々を送ることができるよう、私たちをお導きください。」
じつは、「わたしたちはみな罪の中に生まれてきた」というキリスト教の前提がずっと好きではなかったし、厳格な教えや怖い情景描写や、光をたたえ闇をさげすむ思想も今も好きではないのだけれども、すべて、そのような言葉遣いになっていった文化的背景があっただけのことで、教えのエッセンスには、へんな裏暗さも厳しさもジャッジメントも価値の偏りもなかったのかもしれない、と初めておなかの中でそう感じました。
むしろ、罪を悔い改めれば、必ず許される、という部分に、おおらかさを感じました。ハワイのフナに近いものを感じた。というか、フナとキリストの教えは、もともと同じルーツのものだったようにも思う。。。(フナの教えの上にキリスト教が後からかぶせられた、と思っていたこともあったけれど)。
罪の中に生まれた、というのは、無明の中に生まれたというだけのこと。。。気づかずにいることの多さを、知らせてくれているだけなんだろう。。闇も無明を指しているメタファー、光は気づきのメタファーでしかないんだろう。。。だから白いものが優れていて黒いものが劣っているとか、光や意識が優れていて闇や無意識が劣っているというような図式になる必要も、そもそもなかったんだろう、と。。思うことができそうです、今なら。
優劣は関係なくて、ただ、気づきを持てば思いも行動も現実も変わる、というその現象自体をゆび指してるだけなんだろう、と感じました。
これまでずっと、真っ黒な宇宙空間の中は、ベルベットのような、やわらかくてあったかい質感の闇で満ちてるんだろう、と想像していて、なにもかもを照らし出す透徹した光には、冷たくて近寄りがたい厳しさを覚えていたようなところがあって、生きていくなら闇の生き物たちと生きていきたいと、思ってきました。光の国に生まれて永遠の命をもらうなんて、遠慮したい、と。それで長い長いあいだ、キリスト教とは距離を置いてきたけれども。
偏見と解釈と手垢のついた言葉の中に埋もれているなかに、なにかもっと違うものがあるのかもしれないと思う。。
もう偏見に侵されたまま、世界を切り刻んでるわけにはいかないというような気持ち。かたくなになにかを拒みつづけていられないような気持ち。
いとしさの中にいることのほうを、選びたいみたいです。
ラブジョイという名前の彗星がいま、さそり座方向に今、光の尾っぽをなびかせてるそうで。。。loveとjoyが導く突然変異が、起きてるってことだったりして? (写真は国際宇宙ステーションから撮影されたラブジョイ彗星、下方に見えてるのは地球の大気圏)。
ちなみに、今月16日には、lovejoy彗星は灼熱の太陽の大気圏に突入後、無事に生き残って、天文関係者を驚かせたそう。





























































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