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2007.04.27

ユダ

Jvds2 John Vandersliceという人の「Exodus Damage」という曲があります。ずっと前にくるりのwebラジオで初めて聞いたとき、ちょっと意識が飛びました。気になっていたら、パートナーがこの曲の入ったアルバム「Pixel Revolt」を買ってくれました。

よくよく聴いてみたら、含蓄のある詞でした。暗示に満ちたかたちで9・11のことが歌われています。しかし、特に、サビの

so I say: go go go
let it fall down
I'm ready for the end

という部分に、激しく共感。。。

■John Vanderslice 「Pixel Revolt」(2005 NOISE McCARTNEY RECORDS)

そういえば、このあいだは本を読んでいて、やはり激しく共感して、急に、涙、出てきました。それは、ユダに関する文章でした。ユダはキリストの真の理解者だったと考えたい、と書いてありました。

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2007.04.23

ありすぎ罪悪感?

火事になったら。。と書いたけれど、もし本当に火事になったら、本よりももっと先に、抱えて飛びさなくてはならないものがあるよな、と自分で自分にツッコミを入れていました。今一番に思いつくのは、ねことギター。余裕があれば防災用具を入れたバッグ。。。

最近、ここになにか書いたあとで、自分が書いたことがイヤになる、という現象が起きています。気分の移り変わり速度が速くなっているのかな。。そしてイヤになると、書いたことをほうぼうから攻撃される妄想が起こります。

自分、被害妄想がけっこう激しいほうかもしれません。

でもそういえば、今朝、起きぬけに、「なんでも自分のせいだと思う傾向」について、ひらめきが降ってきました。それは、「そういう癖がなぜかついてしまっているだけで、ほんとうは自分のせいじゃないことも多いのではないかな?」ということ。

こうやって書くと、「あたりまえじゃないかー、前からそう言ってるじゃないかー」という声がどこからか聞こえてきそうだけど、自分では、これを思いついたとき、ずいぶんハッとしたのでした。

なにせ、ひどいときは「新幹線が事故で止まっても自分のせいだと思う」ようなところがあったので。。。

そんなにわたしに責任がないなら楽だな♪と今朝、思いました。

最近、体調がしっかりしてきて、スカスカ感がなくなってきて。れんこんというよりはじゃがいものようになってきました。

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2007.04.20

火事になったら。。。

Photo_2 家が火事になったら、これだけは持って出たい本は?と聞かれたら、まず一番に、ボリス・ヴィアンの「日々の泡」と答える癖が、いつのまにかついていました。

「うたかたの日々」というタイトルになっているバージョンもあるのだけれど、わたしの手元にあるのは古い版(1970)の「日々の泡」のほうで、インク画のようなイラストが付いているものです)。訳は曽根元吉さん。

でも、いまふいっと、エットーレ・ソットサスの写真集「METAPHORS」(2003)も、持って出たいかも、と思いました。 なぜかわかりませんが、火事で家から焼け出されてしまったわたしを、なぐさめてくれそうな。「家」とか自分のおふとんとか、お気に入りのカップとか、そういった愛着のあるものたちと別れなくちゃならなくなって、なにももたなくなったとしても、「ああ、だいじょうぶだ」と思えたりしそうな。

あと、ひいおじいさんの遺稿集(1922)。。。

あと、絶版になった本をコピーして自分で青い布をかけて装丁した、イサドラ・ダンカンの「The Art of the Dance」(1922)。

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2007.04.14

いろいろなものの通り道

アレクサンダーテクニークの教師養成学校に入ってから、かれこれ4、5年のあいだ平行して個人指導を受けてきた先生の本を、読んでいます。今はその先生のもとから離れているのだけれど、本を読みながら、そうそう、この先生のワークのこういうところが好きだったんだよなー、と思い出していました。

それと同時に、どういうところに「もうそこから離れよう」と自分が思うに至った部分があるのかが、見えそうでまだはっきり見えない、そんな感覚がやってきています。先生の本を通して、そこを見ていくことができそうなのは、なんだかとってもありがたいことです。

自分としては、先生の本を読んで、そこに活字になって書かれていることを「鵜呑み」にしないようになっただけでも、ちょっとは成長(?)したような気がするぞ、とも思ったりしています。

鵜呑みにしないというのは、やみくもに否定することではなくって、「どうなんだろう?」と問い続けること、自分で考えてみることです。

人の言うことを鵜呑みにしやすい癖があまりない人には、わざわざ「どうなんだろう?わたしはそれについてどう感じるのかな?どう思うのかな?」と自問してみる必要もないのかもしれないけれど、私には、それが結構大事なようです。

特に、なにごとかを、まるごと「それはこういうことです」と差し出されるとき、自分で考える回路が簡単にマヒしてしまう癖があるから。。。

アレクサンダーについても、からだのこと、意識のこと、思考のこと、いろいろな要素が総合的にからみあっているのだけれど、そこには、もう「こうなのである」と断言できるような原理や法則があるのか?というと、本当はそんなことはないはずです。「今のところわかっている範囲では、どうやらこんなことのようだ」というのが常に現状のはずです。

わたしが最初に読んだアレクサンダーテクニークの本は、ウィルフレッド・バーロウさんという人が書いた本だったのだけれど、バーロウさんは、アレクサンダーさんが見つけたのはひとつの仮説で、今後この仮説は覆されることになるかもしれない、そういう可能性がないわけではない、というようなことを、この本の冒頭に書いています。このバーロウさんの態度が、私は好きです。

心身の問題に、このように対処すればよい、という処方箋は、古今東西、数々あります。そのどれかひとつを絶対視しないことを、大事にしたいです。

さっき、首の中に違和感を感じたので、プロセスワークを使って、その違和感を見ていってみたら、洞窟のようなものの奥に、深い溝がある、というシーンが目に浮かんできました。溝をのぞくと、とても暗い。底が見えないほど真っ暗です。でも私はさらにその溝の中へ降りていくように促されて、降りていきました。真っ暗なので、自分が実際下へ降りているのか、実は上へあがっているのかも判断できないくらいでした。

でもそうやって降りていく中で、ひらめきが来ました。からだというものは、いろいろなものの通り道だということ、だから、自分の狭量な考えで、からだをこう使おう、ああ使おう、というふうに、型にはめないでね、と。

「いろいろなものの通り道」。私の感情や、思考や、意識や気が通ることはもちろんなのだけれど、それ以外のものも、通っている、らしかったです。おそらく、場のエネルギーとか、ほかの生き物のスピリットとか、鉱物や天体のエネルギーとか。そういうさまざまなものが交わる、オープンな場としてのからだも、無視しないでね、と言われているような気がしました。

ただ、そんなところまで含めてからだをとらえると、もう、もやもやで訳わからんようになってしまう、というのも事実です。だからわかりやすい範囲に枠をはめて考えることも、やっぱり大事だと思うけれど、枠の中にいるという自覚とか、「これだ」と決め付けたい衝動を上手にいなすことなんかを、大切にしていきたいと、思いました。

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2007.04.11

おしゃかさまの日のシベリウス

Img_0920_1 おしゃかさまのお誕生日に、菩提樹と薔薇のお茶を飲みました。

この日は、シベリウスの曲を演奏することを目的に設立されたアイノラ交響楽団の演奏会に行きました。

音楽と同調して皮膚が振動するんだなー、というのが、やけにはっきりとわかりました。空気の振動というよりかは、電磁波みたいな感じで??

アンコールには、同じフィンランド出身の作曲家カスキのプレリュード。小さな美しい曲でした。。。今年はシベリウスの没後50年なのだそうだけれど、なんと、シベリウスが亡くなった同じ日に、カスキも亡くなったそうです。シベリウスの死が大きく報じられる中で、カスキの死はひっそりと小さく新聞記事になっていたのだそうです。カスキはシベリウスに作曲を師事していたこともあったそうです。

シベリウス以外の作曲家にもこんなふうに敬意を払っていて、すてきだなあーと思いました。

もう1曲のアンコールはシベリウスの小品「アンダンテ・フェスティヴォ」。なんど聴いても、はっとする曲です。ほんとに澄んでいて。。。

アイノラ楽団の正指揮者は、シベリウスの音楽、北欧の音楽に造詣の深い、新田ユリさん。アマチュア楽団なので、団員は他に仕事を持っているのだけれど、週1回は練習をして、全部の練習の半分くらいは新田さんと一緒だそう。シベリウスの曲の演奏の仕方は、他の作曲家の作品とはずいぶん違ってくるそうです。だから、シベリウスに特化した楽団の演奏は、だんだんと、他の楽団によるシベリウスとは味わいの違うものになっていくらしく。。。今後もたのしみな楽団です。。。

といっても、わたしはシベリウスはもとより、クラシック音楽を聴きこんでいるような音楽愛好家ではないので。。。演奏された曲が今から100年前くらいのものばかりなのを思うと、昔もこんなに早くみんな指を動かして演奏をしていたのかなあー、とちょっと不思議に感じたりました。

もしかしたらもうすこしゆっくりだったりはしないのかな? そんなことを思ったのは、昔読んだ「プレスティッシッシモ―音楽とテンポ」(グレーテ・ヴェーマイヤー著)という本を思い出したからです。

この本、「ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルトらでさえ、その生前から自作品の演奏テンポが速すぎることに驚いていた。産業革命以来、人々の生活テンポは加速したというが、それが音楽のテンポに影響したのだろうか? 生活と楽曲の関わりを検証しながら、適正なテンポを考察する」(amazonの解説)という内容なのだけれど、メトロノームの数値についてなかなか大胆な仮説を立てていて、興味深かったのでした。演奏家の「練習」についても、「1日3時間以上はやってはいけない」など、作曲家たちの興味深い意見が載っていたりました。

でももちろん、シベリウスに関しては、ご本人が指揮した演奏の録音も残っているそうだし、今演奏されているようなテンポが適正なことにまず間違いはないです。もっとゆっくり?というのは単なるわたしの妄想です!

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2007.04.06

「そういうことじゃないんじゃないか感」

ここのところ、カンヅメで仕事をすることが続いたせいか、すっかり足腰が弱ってしまいました。思えば、1日中家にいるので、家の中を数歩歩くくらいしかしていないのでした。昨日、ひさびさに遠出をしたら、かばんを持って半日過ごしただけで、今日は右肩が筋肉痛です。。。ああどうしよう。

あいからわず体調も不安定。みぞおちの奥にぽっかり穴があいている感覚です。そしてちょっとした気候の変化が、ずいぶん大きく体にこたえます。

こんなに体が弱った感覚を持ったのは、たぶん、生まれて初めて。今までは、なにがあろうと、(悩んで悩んで死にたくなっていても)、体だけはピンピンしていて、頑丈だったのです。

なにか大幅な変化が起きているのは、わかるのだけれど、変動がありすぎてちょっとあわあわしています。ただ、もしかすると、これは、環境に対して体が開いてきた、ということでもあるのかな、とも思います。閉ざした状態で良好に維持する、というのは、鎖国したまま安定を保つようなものかもしれない、とか。。。

でも、こんな体調なのに、このところ、またダンスに戻ってみたい気がし始めている自分が、うーむ、信じられません。。。とうてい無理だよなー、という気持ちもあります。

なのだけれど、昨日、大野一雄さんのドキュメント映画「ひとりごとのように」を見に行って、なにか、漠然と、「そういうことじゃないんじゃないか感」を抱きました。

この映画、大野さんが95歳のとき(2001年)のドキュメントです(現在は100歳)。大野さんは2000年に公演で腰を壊してしまわれて、以来、ひとりで立って踊ることはなくなりました。椅子に座って、とか、床に座ったりつっぷしたり、とか、息子の慶人さんに腰を支えてもらって立って、とか、そんなふうにして踊ります。

映画のワンシーンで、「もう踊らなくてもいい、と言われた。もういいですよ、どうぞ家へ帰ってください、と。それはなぜなのか、私は知りたい。私は踊るために、山を登ってここ来た。私は、踊りたい。なのに、踊らなくていい、と言う。それはなぜなんだ? こうやって(腰を)支えてもらっているからなのか?」と、言葉にも支障が出始めていた大野さんが、ずいぶんハッキリと、言うところがありました。

腰を支えてもらって立ち上がったときの、大野さんの一瞬の身振りに、圧倒された瞬間がありました。

あきらかに、体の輪郭からはみだして、はちきれる、なにかがありました。自己完結からはほど遠くて、それはなにか、自分というものの比率がとても小さいからのように見えました。自分というものが、ダイヤモンドのように硬くしっかりとそこに確かにあるのだけれど、その大きさは、比率としてとっても小さい、なぜかそんなふうに、感じられました。

■ドキュメンタリー映画「大野一雄 ひとりごとのように」(2005年)
ポレポレ東中野で公開中。くわしくは↓
http://www.queststation.com/oono/

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2007.04.01

ご臨終です

「ご臨終です」と自分で自分になんども言ってしまった昨日でした。なぜご臨終かというと、昨日、清水の舞台から飛び降りてしまったからです。。。

楽器を、買ってしまったのです。ここ数日、熱に浮かされたように、気になって気になっていた、エレアコベースを。。。

ふだんの自分からすると、とっても高価なお買い物でした。。。自分でも自分が信じられないのだけれど、でも、不思議と、動揺はあまりなく。。。「これだけお金があれば○○ができる」とかいう比較も、観念的にはするけれど、その比較について感情がぜんぜん波立たないのでした。。。それくらい、清水の舞台から飛び降りて死んでも、かまわなかったみたいです。

一昨日の夜、活元運動をしました。頭をからっぽーに、と思っていると、いつも、いろんな考えが浮雲のようにやってきては去っていくのだけれど、そのときに、ちょっと「わたしの声」ではないような感じの声で、「あのベースは宇宙だ、買わなくてはいけない」と聞こえました。

それで、素直に「そーかー」と思いました。

買って帰ってきて、家で弾いたり(といっても初心者の初心者なのでほんとにつたないのだけれど)、眺めたりしていて、ハタと、気づきました。

この楽器は、牡牛座と水瓶座の両方が融合してる。。。と。牡牛座は牡羊座から数えて2番目の星座、水瓶座は11番目の星座です。この楽器を買うことについてタロットを引いたとき、メジャーアルカナの20が出ていたのだけれど、それは、こおゆう意味だったのかもしれない、と思いました。

というのは、2と11と20は、数霊的には同じ「2」の系列の数字なのです。11は1+1=2、20も2+0=2。松村氏の本「数の原理で読むタロットカード」によると、2は「過去の資産」、11は「未来に向けての発展」、そして20はこの「ふたつの対立を調停して新たな可能性を生み出すことになる」そうなのです。

アコースティックベースには、そもそも牡牛座的な地に足のついたナチュラルさがあります。音はエレキベースよりもアップライトのウッドベースに近いし、ふくよか。でもうちに来たこのベースは、そのナチュラルさに、水瓶座的な未来志向が混ざってる。。。というのも、ボディがすべて木製の箱ではなく、後ろ半分がグラスファイバー。このOvationというメーカーは、もともとはヘリコプターのメーカーだそうで、航空宇宙技術のノウハウを、ギターづくりに転用したそうなのです。

たまたまだけれど、カラーも、夜空のようなみずみずしいブルーに、ナチュラルな木目のブラウンが組み合わさっていて、ここにも水瓶と牡牛が同居しているのを感じたりしてしまいます。

楽器屋さんでは、はじめは、オール木製で職人の手づくり、という、木のぬくもり全開のエレアコベースをすすめられていました。でもなぜか、どうしても、隣にあったこの宇宙っぽさも兼ね備えたベースに、気を惹かれてしまったのでした。

それにしても、これで今まで以上に仕事をがんばってお金を稼がなくてはなりません。。。でもこのベースがそばにいてくれると、なんだか仕事もはかどりそうな。。。

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