アレクサンダーテクニークの教師養成学校に入ってから、かれこれ4、5年のあいだ平行して個人指導を受けてきた先生の本を、読んでいます。今はその先生のもとから離れているのだけれど、本を読みながら、そうそう、この先生のワークのこういうところが好きだったんだよなー、と思い出していました。
それと同時に、どういうところに「もうそこから離れよう」と自分が思うに至った部分があるのかが、見えそうでまだはっきり見えない、そんな感覚がやってきています。先生の本を通して、そこを見ていくことができそうなのは、なんだかとってもありがたいことです。
自分としては、先生の本を読んで、そこに活字になって書かれていることを「鵜呑み」にしないようになっただけでも、ちょっとは成長(?)したような気がするぞ、とも思ったりしています。
鵜呑みにしないというのは、やみくもに否定することではなくって、「どうなんだろう?」と問い続けること、自分で考えてみることです。
人の言うことを鵜呑みにしやすい癖があまりない人には、わざわざ「どうなんだろう?わたしはそれについてどう感じるのかな?どう思うのかな?」と自問してみる必要もないのかもしれないけれど、私には、それが結構大事なようです。
特に、なにごとかを、まるごと「それはこういうことです」と差し出されるとき、自分で考える回路が簡単にマヒしてしまう癖があるから。。。
アレクサンダーについても、からだのこと、意識のこと、思考のこと、いろいろな要素が総合的にからみあっているのだけれど、そこには、もう「こうなのである」と断言できるような原理や法則があるのか?というと、本当はそんなことはないはずです。「今のところわかっている範囲では、どうやらこんなことのようだ」というのが常に現状のはずです。
わたしが最初に読んだアレクサンダーテクニークの本は、ウィルフレッド・バーロウさんという人が書いた本だったのだけれど、バーロウさんは、アレクサンダーさんが見つけたのはひとつの仮説で、今後この仮説は覆されることになるかもしれない、そういう可能性がないわけではない、というようなことを、この本の冒頭に書いています。このバーロウさんの態度が、私は好きです。
心身の問題に、このように対処すればよい、という処方箋は、古今東西、数々あります。そのどれかひとつを絶対視しないことを、大事にしたいです。
さっき、首の中に違和感を感じたので、プロセスワークを使って、その違和感を見ていってみたら、洞窟のようなものの奥に、深い溝がある、というシーンが目に浮かんできました。溝をのぞくと、とても暗い。底が見えないほど真っ暗です。でも私はさらにその溝の中へ降りていくように促されて、降りていきました。真っ暗なので、自分が実際下へ降りているのか、実は上へあがっているのかも判断できないくらいでした。
でもそうやって降りていく中で、ひらめきが来ました。からだというものは、いろいろなものの通り道だということ、だから、自分の狭量な考えで、からだをこう使おう、ああ使おう、というふうに、型にはめないでね、と。
「いろいろなものの通り道」。私の感情や、思考や、意識や気が通ることはもちろんなのだけれど、それ以外のものも、通っている、らしかったです。おそらく、場のエネルギーとか、ほかの生き物のスピリットとか、鉱物や天体のエネルギーとか。そういうさまざまなものが交わる、オープンな場としてのからだも、無視しないでね、と言われているような気がしました。
ただ、そんなところまで含めてからだをとらえると、もう、もやもやで訳わからんようになってしまう、というのも事実です。だからわかりやすい範囲に枠をはめて考えることも、やっぱり大事だと思うけれど、枠の中にいるという自覚とか、「これだ」と決め付けたい衝動を上手にいなすことなんかを、大切にしていきたいと、思いました。
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