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2007.05.29

こころの速度

Eメールというものを初めて出したとき(まだウィンドウズもインターネットもなくて、黒い画面に緑の文字列が並ぶだけのコンピュータで、大学間のネットワークを経由して送ったのだったのだけれど)、あのときは、今書いた手紙が、ボタンひとつで、遠い外国の地にいる人に届いちゃう、ということが嬉しくてどきどきしました。

それまでは、紙の手紙を、郵便で。外国だと、場所にもよるけど、だいたい1週間くらいはかかりました。

タマネギの薄皮のように薄く透きとおる便箋を気に入っていました。ベッドに寝転んで書いて、字が曲がったり、カウチに立てひざして座って、ひざがしらに便箋をのせて書いたり。喫茶店で書いたり。ときにはちゃんと自室の机に向かって書いたりしました。

書いたけど送らなかった手紙も、ものすごくあります。

もうすこし書いてから、封筒に入れて送ろう、などと思っていると、話題がどんどん古びていって、相手の手元に届くころには、もうものすごく時差も出てしまうしで。

あとは、単純に、封筒に入れて、宛名を書いて、切手を貼って、ポストに入れる、という段階のどこかで、忙しくなってストップしてしまうとか。切手まで貼ったのに、ポストにいれそびれて、手紙の鮮度が落ちちゃった、とか。

手紙をもらって、すぐ返事を書きたくなって書いても、お互いの間にはかなりの時間が流れていて。

今メールの時代になって、やっぱりずいぶん、速いなあと。2週間待つのは当たり前、という世界ではなくなりました。

メールも、携帯電話も、すぐさま自分の元に届いてしまうことが、うれしくもあり悲しくもあり。姿をくらましたい、という欲求を、かなえにくくなりました。

小学校の校庭を、まったいらでなく、でこぼこにしたら、子供たちがすこやかに大きくなる、と誰かが言っていたのを聞いたけれど、でこぼこというのは、そこここに隠れどころができるってことかと。

自分のペースではないものごと(授業の時間割とか?)に追いたてられて、大変になったら、ちょっと姿をくらまして、ぼーっとして。こころの本来の速度を取り戻せたら、元気が出そう。。。

私的には、自分にはなにもできることはなくて、ただ待つしかない、というような状況は、実は、ぼーっとするのに最適です。

電車に長いこと乗っているときとかも、そう。

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2007.05.28

JUBILEE

Photo_4 くるりの今度のシングル曲「JUBILEE」をHMVの試聴機で聴きました。

すごかった。。

大好きだった楠の木の下に立ったとき、よく体験した、足の裏からあたまのてっぺんまでなにかが「通る」感じ、あれを体験しました。

いつもは「閉じてる」足の裏が、開いちゃう感じ。。。

(ネット上で聴くのは、おすすめできません)

■JUBILEE くるり(2007)
M1. Jubilee gemischt von Dietz 
M2. ヘイ! マイマイ!! 
M3. Jubilee mixe´ par Alf
05/30 Release

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2007.05.24

「ハテナ」を宿す

自覚する、気づく、そうするとそのエネルギーが伝わっていく、という作用について書いたけれど、今朝は、そう、その「気づく」というのは、ぜったい他人にかわりにやってもらうことはできないことなんだなー、という思いが降ってきました。

自分にしかできないこと、であります。

気づきの質にもいろいろありそうで。

「気づく」のと「習う」のは、同じようだけれど違いそうだな、と思いました。「習う」ことの内容は、ある程度、教えようとした側の「狙いどおり」だけれど、「気づく」ことの内容は、パーソナルで、ひとりひとり、ぜんぜん違う。

「あ、そっか」と気づく、それは「これに気づくといいですよ」と促されたりしないときに起こると、気持ちいい気がします。

自分が世界と出会って、小さい「ハテナ」をおなかの中に宿して、その「ハテナ」が臨月を迎えるまで、自分は「妊婦」として、「ハテナ」によさそうなことをいろいろして(散歩をするとか、なにを体に入れるかに気を使うとか)、そうしているうちに、「ハテナ」が「気づき」となってポコン!と生まれ落ちてくる、

そういうプロセスを経た気づきは、なかなかに良質で長持ちなんじゃないかと、思いました。

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縛られるのはいやなこと?

今朝、降ってきたのは、土星と木星についてでした。

なにもないところで、さあどうぞ、自由にやってください、といわれても、どこからどうはじめたらいいかわからない。。。なかなかクリエイティブにはなれないっていう経験、しています。

なにかの「縛り」や「制限」を与えられると、その中で、自由なスピリットが動き出せる、という経験、あります。

特に、踊りをつくるとき。「今日は、イスを1脚。これを使って、踊りをつくってください」とか、そういう「縛り」を設定してもらうと、遊びの引き出しを開けやすくなる。。。「枠」があることで、その中で「好きなようにやる」ことが、しやすくなります。しかもその「好きなように」も、いつものパターンに陥るだけの「好きなように」から、もっと自分自身も驚くような発見がある「好きなように」になる。。。

「限界」「制限」「枠組み」「骨組み」「ルール」、そういうものを受け持っているのが占星術では土星らしいのだけれど、つまり、土星というのはある意味「好きなようにやる場を作ってくれている」わけでもあるのか、と。

これがあるせいで、「可能性をのびのびと拡大する」という質をもつ木星が、生き生きしてくるってことが、ありそうな気がしました。

土星を、暗くて重くてしかめっつらしている、目の上のたんこぶみたいな存在だ、と思っていたわたしがいたけれど、必ずしもそういう面だけではないんだなー。。。縛られすぎるときゅうくつだけど、少し縛りがあるのは、よい刺激になるというか、新しいとこを開くきっかけを作ってくれるというか。。。

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2007.05.20

どかどか降ってきた。。。

今朝は、インスピレーションがどかどかと降ってきて、それがおふとんを出たあと、朝ごはんを用意しているあいだも続いたので、コーヒー豆がいつもより深煎りになってしまった。。。(ところで、コーヒー豆の焙煎には、発明工房の「煎り上手」がおすすめです、発明者の藤村さんも、とてもすてきな方なのです)

インスピレーションのひとつは、占星術・シンボリズムについて。これは、世界やものごとを理解するための、ひとつのシステム、言語なわけなんだけれど、そこには、なんというか、「日本語」とかいうときの言語のような限界がないんだな、と。

「日本語」とかいうときの言語には、わける、とか、名づける、という機能が強いと感じています。「わける」ことで「わかる」という方向性。

占星術やシンボリズムには、どちらかというと、「わける」ではなく「合わせる」の方向を強く感じます。。。

さまざまな要素が、出会うこと、感受しあうことで、生成される意味。そこを見ていくので、いままで「わかれていた」ように見えるものが「合わさって」いくのを、目の当たりにする。。。

占星術で、実にさまざまな天体(実在することがわかっている星も、そうでない感受点も)が常にいろんな動きをして、場が生成され続けているのを見るにつけ、そしてそれが個人の背景にある天体配列と影響を及ぼしあってるのを知るにつけ、一瞬一瞬の現実が、

さまざまな色を塗りかさねていくことで、絵から立ち昇る「響き」というか、

いろんな音が重なり合って、音楽から現れる「色彩」みたいなもの、

と、思えたりします。わたしはその場に参加してるけど、わたしがその画家や指揮者ではないってことで。。。(というか、どこにも画家や指揮者はいない、または参加してる全部の要素が瞬間瞬間に画家の役、指揮者の役を、受け持ちあっている、みたいな)。

だから、自分自身についても、わたしが、「こうしていれば、ああしていれば」とか「こうしよう、ああしよう」と考えることは、実は全体の一部、「わかれた」一部が作用しているだけなので、

意志や意欲で、自分やものごとを動かすという次元も確かにあるけれど、別の次元では、やれることは唯一、そこにすでにあるものを自覚することだけなんじゃないかと。。気づくことだけが、ほんとうのわたしの「動力源」なんじゃないかと、思えました。

気づいたら、そのエネルギーが、わたしの意志にも、意志では届かないそのほかの要素にも、おのずと伝わっていく、、、そういう物理(ものごとのことわり)作用があるということ。。。「意志では届かないところ」っていうのには、自分の感情や、自分の「外側」の事象のリアクションなんかも含まれてくるんだけれど。

それで、気づきにも、いろんな質がありそうで。。

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2007.05.18

長いスパン

わたしは年長者が「人生経験」の豊富さからこちらを諭してくるようなのがイヤで、そういう青さというかナマイキなとこがあるんだけれども。。。

ある程度の長さを生きてきて、ようやくわかりはじめることって、実際、あるんだなと思い始めました。自分の身の上で。。。

この世へ生まれ出てきて、はじめのころは、夜が来て、朝が来て、というサイクルがあることも、よくわかってなかったのかもしれなくて。夜が来たら、もう朝は来ないような恐れを抱いたかもしれなくて。

でも、夜が来て、また朝が来る、というサイクルは、サイクル的にも早いので、わりあいと人生のはじめの頃に、「ああ、夜が来たら次は朝が来る、それからしばらくするとまた夜が来る」ということを、覚えたはずです。

もっと長いスパンで繰り返すサイクルについては、もっと長く生きていく中で、ようやくわかってくるものなのかも、と思いました。季節の移り変わりの仕方とか。。。

自分の心身のコンディションのサイクルとか、生活の状況の移り変わりについても、しかり。たとえば、気持ちがずーと沈んでいるとき。わたしの場合、これはもうずっとこうなのだー、というように感じてしまいがちです。仕事などでも、苦しい仕事の状況に自分が入っているとき、「これはこれからもずっとこのまま続くのだー」と思ってしまいがちで。。

そういう、自分の心身のコンディションや、状況について、「これがこのままずっと続く、ああなんてこと」と感じてしまうのは、「夜が来ているってことは昼はもう終わったんだ、もう後はないんだ、ああなんてこと」と感じているようなものなんだけれど。

ただ、そのやってきた「夜」の暗さが圧倒的に感じられる、というのは事実なんだけれど。。。

長く生きて、心身のコンディションや、身の回りの状況の「移り変わり」というものを、繰り返し体験していく中で、長い目で見ると、サイクルがあるんだなー、ということが、ほのかにわかってきた気が、今朝、しました。

ひとつサイクルをめぐるのに、うんと時間のかかるものは、なかなか、リピート体験できる回数が少ないからね。。。

それに、時間をかけてめぐっていると、自分がひとつの地点にスッカリなじんでしまって、それ以外のあり方を想像しにくくなるってこともあるだろうし。。。

でもスパンの長さはどうであれ、移り変わらないものは、ないのだろうし。。

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2007.05.13

星と節制

Star_6 昨日、タロットを引くと、「17・星」が出ました。カードの意味などを考える前に、ぼーっと見ていると、2つの壺から水が、流れ落ちているのに、気が引かれました。あ、これは、このあいだ、「14・節制」のカードで壺から壺へと移していた、あの水なのではないかしらん、と思い当たりました。

いちばん最近描いたタロットの絵が、「14・節制」でした。わたしの絵ではなぜか、壺から壺へと移されている水の流れが、とにかくどどーんと目立っていました。

少し飛沫を飛ばしつつ、水の太い流れは左手の壺から右手の壺へと落ちていました。

「17・星」では、壺から壺へと移すのをやめたんだ、と思えました。壺の中に入れていた水を、もう、もとの場所へ、返すことにした。流してしまうことにした。

Img_0958_1「14・節制」を描いたとき教わった解説では、この壺から壺へと移る水は、命のようなもので、水を移し変えている存在は、人間ではなく天使。水の移し変え行為は、受精行為というか、そんなようなものと考えられるそうでした。

ひとつの器から、別の器へ、と移し変えていたのを、もう、どちらの器からも水を空けてしまう、というのは、命を、個体から解放して、広いところへ返す、ということになるのかな。

「自分」という殻、エゴから、生命力を解放してあげる、というようなことかもしれないな、と思いました。だから、この「17・星」の人物は、衣服を着けていないのかも。自分へのこだわりを解いて、個の意識を溶かして、広いところに溶け込む。その広いところ、というのは、「星」のカードなのだから、もうこの地球にも限定されない、広い広い領域なはずで。

そんな広いところに、溶け込むことで、なぐさめがやってくるってことなのかも、と、今日はそんなふうな気がします。

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2007.05.10

ことば

コトの葉っぱ
どこから摘んできた?

深くあおく、透きとおった、あの、空の地層

そこから採ってきた
ほんとは、そうでした

小鳥からむしり取って、羽だけあげる

そんなこと、してないつもりでした

でもそのくらい、残酷だった

わたしのコトバたち

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2007.05.02

桜湯

Img_0945

深夜にのどがかわいて、カフェインレスのあったかい飲み物が飲みたいなーと思って、桜湯を入れました。

鶴巻温泉の、公共浴場の売店で見つけた、桜の塩漬け。これに、お湯を注げば、桜湯のできあがりです。塩味が少し出て、花が少し開いて、桜の香りがちょっとします。なんともおいしい飲み物で、わたしは大好き。パートナーは、塩味がきつすぎる、といって、あまり飲みたがらないのだけれど。。。

今ちょっと調べたら、この桜の塩漬けというのは、鶴巻温泉で売っている、あの神奈川県秦野市産のものが、老舗の味みたいでした。

「神奈川県秦野市千村では江戸時代末期から生産を始め、全国生産の約8割を生産している。五分咲き程度の八重桜の晩生種関山を用い、毎年4月中旬頃から加工している」
のだそうです(ウィキペディアより)。びっくり!

桜湯は、わたしにとっては思い出の味でもあります。。。お正月に、両親と祖父母と一緒にお墓参りに行くと、いつも、霊園内の花屋さんのだんなさんが、桜湯をごちそうしてくれたのでした。他で飲むことがなかったので、霊園でこれを飲むのが、特別感があって好きでした。

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