どかどか降ってきた。。。
今朝は、インスピレーションがどかどかと降ってきて、それがおふとんを出たあと、朝ごはんを用意しているあいだも続いたので、コーヒー豆がいつもより深煎りになってしまった。。。(ところで、コーヒー豆の焙煎には、発明工房の「煎り上手」がおすすめです、発明者の藤村さんも、とてもすてきな方なのです)
インスピレーションのひとつは、占星術・シンボリズムについて。これは、世界やものごとを理解するための、ひとつのシステム、言語なわけなんだけれど、そこには、なんというか、「日本語」とかいうときの言語のような限界がないんだな、と。
「日本語」とかいうときの言語には、わける、とか、名づける、という機能が強いと感じています。「わける」ことで「わかる」という方向性。
占星術やシンボリズムには、どちらかというと、「わける」ではなく「合わせる」の方向を強く感じます。。。
さまざまな要素が、出会うこと、感受しあうことで、生成される意味。そこを見ていくので、いままで「わかれていた」ように見えるものが「合わさって」いくのを、目の当たりにする。。。
占星術で、実にさまざまな天体(実在することがわかっている星も、そうでない感受点も)が常にいろんな動きをして、場が生成され続けているのを見るにつけ、そしてそれが個人の背景にある天体配列と影響を及ぼしあってるのを知るにつけ、一瞬一瞬の現実が、
さまざまな色を塗りかさねていくことで、絵から立ち昇る「響き」というか、
いろんな音が重なり合って、音楽から現れる「色彩」みたいなもの、
と、思えたりします。わたしはその場に参加してるけど、わたしがその画家や指揮者ではないってことで。。。(というか、どこにも画家や指揮者はいない、または参加してる全部の要素が瞬間瞬間に画家の役、指揮者の役を、受け持ちあっている、みたいな)。
だから、自分自身についても、わたしが、「こうしていれば、ああしていれば」とか「こうしよう、ああしよう」と考えることは、実は全体の一部、「わかれた」一部が作用しているだけなので、
意志や意欲で、自分やものごとを動かすという次元も確かにあるけれど、別の次元では、やれることは唯一、そこにすでにあるものを自覚することだけなんじゃないかと。。気づくことだけが、ほんとうのわたしの「動力源」なんじゃないかと、思えました。
気づいたら、そのエネルギーが、わたしの意志にも、意志では届かないそのほかの要素にも、おのずと伝わっていく、、、そういう物理(ものごとのことわり)作用があるということ。。。「意志では届かないところ」っていうのには、自分の感情や、自分の「外側」の事象のリアクションなんかも含まれてくるんだけれど。
それで、気づきにも、いろんな質がありそうで。。
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