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2007.10.30

ハロウィンといえば

今日の「ねこ温度計」(このブログの右側に載せさせていただいてる)は、ハロウィン仕様です。

ハロウィンが来ると、おばあちゃんとリバー・フェニックスのことを思い出します。2人ともこの時期に他界したので。。。

この時期は、おばけの世界がこちらの世界に一番近づくときだから、この時期に他界すると、ひょいっとあっち側へ行けてラクなのだ、というようなことをどこかで聞いて、「そうか、よかったな」と思ったのを覚えています。

リバーの命日は31日。彼の出ていた作品で、特に印象に残っているのは、『旅立ちの時』(過激な反戦活動のために指名手配されている両親を持つ息子役)、『リトル・ニキータ』(両親が実は秘密工作員だったことを知る息子役)、『モスキート・コースト』(現代生活を離れて中米のジャングルの中で暮らすことにした発明家一家の息子役)。いずれも、自分が置かれている特殊なシチュエーションに対応している彼には、独特のかげりのある存在感が立ちのぼっていました。

なんというか、けなげなのと、せつないのとが、ごちゃまぜというか。まあ、この存在感のてざわりは、『スタンド・バイ・ミー』の頃から一貫していたけれども。。。

デビュー作『エクスプローラーズ』から遺作『愛と呼ばれるもの』まで、考えてみるとリバーが出た映画は全部見ています。。。自分でも少しフシギ。そんなに好きだったっけな。。。(とこんなふうに昔を振り返っているのは、今水星が逆行中だからかな?)

遺作『愛と呼ばれるもの』は、意外とすきでした。どこがツボなのか自分でもわからないくらい、どうということもない映画な気もするんだけれど、カントリーミュージックがテーマになっていて、ナッシュビルが舞台で、「ギター1本持って、あとはなにも持たずに、音楽で生きていこうとする」みたいなドリーミングがあったところかな。。。

リバーも、ほんとにやりたかったのは芝居よりも音楽だったらしい、と聞いたこともあるし。。。

でも彼が出ている映画の中で、わたしの一番のお気に入りは、『マイ・プライベード・アイダホ』です。やはりせつないけれども、でも、この映画はいいです、絵がいいーーー。

目が喜ぶ映画でいうと、今まで見た(ほんとに限られた数の)映画の中でも一番映像にノックアウトされたのは、ゴダールの『愛の世紀』でした。不思議と内容はぜんぜん思い出せないけれど、絵は思い出せて。

ああ、もうそれは、こころに染み入るのでした。

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2007.10.26

無条件ハッピー

Kajikun 疲れてはいないんだけれど(不思議と)、でも時間にゆとりを持てず、だからハッピーな気分からは遠のいていて、だけど 

2日前にリリースされたカジヒデキのアルバム(Towns and Streets)を、ネット上でちょこっと試聴したら、こんなに音質のわるいパソコンなのに、なのに、ハッピーがやってきました♪

うーん、彼の軽やかさ、ポップさに脱帽です。キラキラ度はさらにパワーアップしているみたい。

前作「New Pretty」のエッジーというか、前のめりな感じもよかったけれど。

このキラキラかげんは、なんとも。。。

やっぱり元気が出るな。

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2007.10.21

共振

Photo 藤枝守さんという作曲家の「植物文様」シリーズのコンサートに行きました。箏と笙とバイオリンで、純正調という調律を基にしていたコンサートでした。

この植物文様シリーズというのは、植物研究家でアーティストの銅金裕司さんが考案した「プラントロン」という装置(植物の葉の表面に現れる電位変化を計測する装置)で採ったデータを、音階に置き換えるプログラムをつくって、そこに表れたパターンをもとにして作曲された曲集です。

これまで違う楽器を使ったこのシリーズのコンサートを聴いていて、今回が3度目だったのだけれど、今までで一番全身に響いた感じがしました。

「聴く」というよりかは、「全身まるごとその音の場に参加する」という体験でした。。。

全身が振動装置になって、共鳴していたような。もう体の内部はどんどん動き出して、すごく自由になりました。

音楽が、ほぼ自然現象のように感じられました。風がふわりと起こって、そして止む、というような。。。演奏者の「個」というものが中空になっている感じもあって(特にバイオリンの鈴木理恵子さんと笙の石川高さん)。

箏の響きを聞いていると、楽器が木でできている、ということがリアルに感じられたりもしました。

ひさびさの音楽ハイで、うわー、ほんとに飛んじゃうー、、、、というところまで行ったら、それが最後の曲の終わりのところで、そこでコンサートが終わったのでした。

会場は今回も自由学園の明日館という、フランク・ロイド・ライトの設計で80年前に建てられた、木造のさほど大きくない講堂で、演奏者はその場の真ん中にお互いに向き合う配置をとり、オーディエンスはまわりをぐるりと取り囲んで座りました。円心的な場で、それがまた、よかった気がします。

* * *

Plantronmind 藤枝さんと銅金さんが11年前にコラボレーションをしたときのCD「Plantron Mind」では、植物の電位変化がリアルタイムに音に変換されています。

このときの植物はカボック。このCDを聴いていると、植物の息づかいを感じて、とても休まります。

温室の中でいろんな音楽をかけて、植物の成長を見る実験をした人が、ある音楽ではスピーカーに近寄る方向へ成長し、別の音楽ではスピーカーから離れる方向に成長するという結果を得た、というような話を聞いたことがあるけれど、

呼吸が合うとか、そういうようなことが、共振しやすい音楽とそうでない音楽とが、ありそうに思えました。

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2007.10.18

小さい偶然、元気の素

先日「君あり、故に我あり」というサティシュ・クマールさんの本を読んで、Soul、Soil、Societyというところにとても感じ入っていたら、このフレーズがそのままタイトルになった本を見つけました。

Kumar 「土と心と社会(Soil、Soul、Society)」というタイトルの小さな本。今のわたしの元気の素です。

ここに抜書きをしたい部分が山ほどあって、ありすぎて、書けないという感じ。。。

アレクサンダーテクニークでずっと学んできたこと(エンドゲイングをしないこと=目的に先走らないこと、自分を大切にすることでお互いを大切にすること)、

スロービジネススクールをとおして学んでいること(経済・お金との付き合い方、働き方・暮らし方を見直すこと、身の丈に合った心地よいスケールとテンポでものごとにあたること、わたしの便利さ・豊かさの背後で犠牲になっている人や生き物や環境に気づくこと)、

タロットのお絵かきでかいまみたもの(過去・現在・未来が存在しない境地、矛盾したものが共存する境地、意識や理性ではないものの力)、

そういうことや、小さい頃から感じてきたたくさんのことが、この小さい本でサティシュさんが言っていることと、響き合って、こだまし合っています。ばらばらだったものが、全体のなかにおさまるような。

それと今、個人的にチャレンジしていることについても。。。

* * *

この小さい本の存在を知ったとき、とても欲しくなったんだけれど、通販で買うしか手段がなくて、ちょっと踏みとどまっていました。そうしたら、たまたま実物と出会いました。

学生として在籍しているスロービジネススクールが、あるイベントでブースを出すことになったのだけれど、そこで売り子さんをやるはずだった人の1人が都合が悪くなり、ご縁があって急遽かわりに売り子さんをやることになって。。。

当日、売り場の用意を整えながら、ふっと横を見ると、私たちのブースのとなりのとなりに「懐かしい未来ネットワーク」というグループの方たちがいて、この小さな本を並べていました。。。

うれしかった。。。「懐かしい未来ネットワーク」の由来になっている「懐かしい未来」というヘレナ・ノーバーグ・ホッジさんの本もちょうど読んでいたところでした。

団体などでの「活動」がとにかく苦手で、ひきこもるほうが断然得意なのだけれど、たまには外へ出て行くといいことがあるな、と思いました。

■「土と心と社会」はウェブショップ膳でも取り扱っています。

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2007.10.15

やぎの夢

やぎを鎖につないで、ごはんも水もやらずに放っておいたのに気づいた。毛が灰色になってみすぼらしくなっていた。

なんてかわいそうに、水も飲めずに、と気づいてあわてて鎖を解いてあげた。自分のしてきたことを悔いた。わたしたちの住まいは学校の校舎のようなところで、下の階にはプールがあった。

やぎはプールへ行くと、冬の間使われていないプールに残っていた水を飲んだ。コケが生えていたけれど、そのコケを食べた。

わたしたちは4階くらいの廊下の窓から、階下のプールの様子をみていた。やぎは水を飲み終わると、なんと校舎の壁づたいに、垂直に4歩ぐらいジャンプして私たちのいた階の廊下に飛び込んできた。茶色い毛の、立派なやぎになっていた。

ずっと水もごはんもなくて衰弱しきっていたはずのやぎにものずごいパワーがみなぎっていて、びっくりした。

やぎは廊下に降りるとヒトになった。男の人。彼の後姿は、その強靭なジャンプ力を裏付ける幅広い肩で、背中は逆三角形のかたちをしていた。私たちは感心した。

彼をこの家の中に住まわせることになった。彼はここで暮らすことに同意した。でも「せめて剣だけは」と言った。

彼がここに来たときに持っていた剣のことだ。その剣は、鞘に豪華な模様が刻まれ、いろんな石が付いていた。きれいな短剣だった。わたしはその短剣を覚えていた。

探してみたけれど、見つからなかった。仕方ないので、猫のにゃみちゃんのごはんにするさんまを3枚におろすためのナイフと、もう1本別の包丁を見せて、「これしかない、このどちらかの剣をどうぞ」と言った。

やぎ(やぎ男)は、にゃみちゃんのさんまをおろすほうのナイフを選んで、まんざらでもないようだった。

でもこのやりとりを見ていたわたしの叔父にあたる人は、やぎにナイフを持たせておくのは危険だ、と考えていて、やぎに「ここではナイフは必要ないんだよ、むしろお金のほうが役に立つのだよ」というようなことを言っているのを聞いた。

わたしはやぎを信頼することにした自分の判断を正しかったと思ったけれど、叔父さんの反応に、気持ちが揺らいだ。

やっぱりナイフを持たずに暮らしてもらうべきだ、と思って、やぎに「ごめんなさい、やっぱりあのナイフはにゃみちゃんのさんまをおろすのに必要だから、返してもらえますか。かわりにあなたには新しくナイフを買ってきます」と言った。やぎは承諾してくれた。わたしが「新しく買ってくる」と言ったのは嘘だったけれど、同時に本気だったような気もした。。。

やぎに、「どんなナイフがいいですか?」と聞くと、やぎはさんまをおろすナイフが気に入ったようで、「このナイフみたいなやつがいい、刃の途中が5ミリくらいに細くなっているもの。演舞をするときにはこの剣だと見栄えが悪いけれど」と言った。

わたしはわかったと言って、やぎからナイフを受け取り、食器棚の奥に隠した。やぎは演舞をするんだな、なにかの武術かな、と思いながら。。。

そこで夢は終わった。

どうももう1匹、なにかの動物を鎖につないだまま放ってたことに気づいた気がする、この夢の中で。。。

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2007.10.10

なにをしないことにするか?

毎年10月8日前後になると思い出すのは、2001年の9.11の翌月、アメリカがアフガニスタンを空爆し始めた日のこと。。。

あの年の10月8日、朝、駅の階段の下で配られていた号外を手にしたときの、胸の奥がどしーんと地中深くへ沈んだ感覚を、覚えています。

号外には、暗い空から地上の街へと落とされた爆弾の光が、ぼうっと遠景で写っている写真が大きく載っていました。

9・11よりも、この10月8日の知らせのほうがショックでした。

それだけは、してはいけないこと、という気持ちがあったからだと思う。

単純な報復行為、反動的な仕返し。。。「目には目を」をやってしまったら全世界が盲目になる、とガンジーは言って、みずからそれをしないことで、インドの独立への道を開いたのだから、そのガンジーは広くリスペクトされているのだから、

大国といわれるアメリカが、国をあげて、愚かなことだとわかっている「目には目を」を実行するはずはない、と思っていたのでした。

人間が、公然と人間を殺すことにしました、と言って、それを実行して、しかも犯罪者として認識されない、ということが21世紀になっても起こるとは思っていませんでした。

でも、やられたらやり返す、相手を叩きのめす、というリアクションを抑えるのは、実際にやられた、という瞬間には、大きなチャレンジなんだと思うこの頃です。

すぐ戦いを始めてしまうクセを、どうやったら乗り越えられるんだろう? どうやったら、ぶたれた頬の反対側の頬を差し出せるんだろう? 

と自問中です。

アレクサンダーテクニークでは、なにを「しないことにする」か、がポイントで、その「しないことにする」力を使ってものごとを変えていくんだけれど。

20世紀のはじめにF.M.アレクサンダーさんは、この「しないことにする」力(faculty of inhibition)が、なにかを「することにする」力(faculty of volition)と同じだけ大事なのに、教育では「すること」ばかりを強調するから、「しないことにする」力、衝動を抑える力がだんだん衰えてる、と憂いでいたっけ。。。

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2007.10.09

秋の日に、ねがいごとふたつ

丘の上のわが家には、となりに広い畑があったんだけれど、持ち主の農家のだんなさんが去年の秋亡くなって売りに出され、今ははらっぱ。来年はじめあたりから建売住宅の工事が始まるようです。

草ぼうぼうだったのを、刈ってあって、今はその枯れ草がふかふかに敷き詰められている状態。

数日前から、ときどき、近所の子供たちがここへ遊びに来ています。

昨日は、中学生くらいのお兄ちゃんと、弟、妹の3人がサッカーをしていた。

今日は、学校帰りの女の子2人。赤いランドセルを草の上に投げ出して、2人で丘の下に広がる景色へ向かって「やっほ~」と叫んでる。。。それから草の上を走って、草のふかふかの上に倒れこんでじゃれあって。きゃーきゃーいって楽しそうに遊んでいます。

こんなふうに、なんにもない広い草原があれば、そこに子供たちは自然とやってくるんだな、と思うとおもしろいです。ただ草原と眺めのいい景色を用意しておいてあげればいいみたい。子供のアンテナってすごい。

ここをこのまま草地にしておければよいのになー。。。

* * *

今朝の新聞の一面に「中1の1割がうつ」という記事がありました。今回は国内では初めて、医師が面接してとったデータらしいです。

このあいだ電車でとなりに座っていた中3らしき女の子2人も「一番うつがひどかったのは中1のとき。毎日死ぬか人を殺すことしか考えてなかったから」と言っていて、え!と思ったのでした。

わたしにも中1の姪っ子がいて、もうすぐ彼女のお誕生日なので、なにかプレゼントのリクエストある?と聞くと、「ケータイ小説」の単行本がいいとのこと。教わったタイトルの本を書店でぱらぱらと読んでみて、絶句。

自殺や人を殺すことを頭の中でシミュレーションしているのでなければ、ケータイ小説みたいに、男女の恋愛やセックスごっこをひたすらシミュレーションしている、、、それが彼女の日常なんだとしたら???と思って焦ってしまいました。

かくいう私も、中学生の頃は、確かによく死ぬことを考えたし、恋のゆくえにどきどきしたりもしたけれど。。。

恋も楽しかったけど、部活の新体操が楽しくて楽しくて、その両方があったときが一番充実しているように感じていた記憶があります。自分の好きな曲にあわせて演技を作っていた頃。

わたしは中学に入って、はじめて目の前で「踊っている人」を見て、そのジャージ姿の先輩たちがジャンプしながらえびぞりになったときの動きに釘付けになったのでした。

色白で、体を動かすとほっぺたがうっすら紅色に染まる小野里先輩の、ゴムまりのようにはずむジャンプが好きでした。

今の中学生にとっても、なんにもないところでただ「好き」と思えるなにごとかがあれば、そしてそれを心置きなく好きでいることができていればいいな、と思ったりしている秋の日です。

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2007.10.08

今日の1冊

今朝は曽我部恵一さんの「虹をみたかい?」を読みつつコーヒー豆を煎っていたら、いつもより深煎りになってしまった。。。でも今日は曇りなので、このくらいがちょうどいいかもしれないなと思ったり。。。

さいきん、ちょっとがんばりを要することに取り組んでいて、ちょっとくたびれてたんだけど、この本、心のごはんになりました。ほっとした。

曽我部さんて、ほんとにレコードへの愛がいっぱいある人なんだなあ、と実感。

それと、考えや印象や言葉のでどころになっているところ、根っこのところが、きれいだな、と思いました。頭だけが先走るようなのが、ぜんぜんないところ。

表紙の虹の絵がすばらしい。。。おともだちの絵描きさんによるものらしいです。

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2007.10.07

「大丈夫」感

このブログ、ふいっと思い立ってデザインを作り、最初のエントリーをアップロードしたのが、ちょうど今から1年前でした。

当時、タロットカードの絵を描く、というプロセスに入っていて、ゼロ、1、2と描き進んで、3を描いたところで急に、このブログを始めたのだけれど、

ぐるりと四季がめぐって、先日、タロットカード最後の1枚の、21(世界)を、描き終えました。21は、タロットに出てくる3番目の「3」です(タロットでの「3」系列のカードは3、12、21の3枚)。

この1年と3ヶ月のあいだに描いた以前の絵を思い出して、先生は、絵の感じがほんとに変わりましたね、とおっしゃいました。「なにかにはっきりとイエスっていったんじゃないですか?」と言われました。

たしかに、そんな感じです。

タロットの最後のほうのカード(特に18・月、19・太陽、20・審判)は、どう描いていいかもわからない未知の領域で、不安や、「わからなさ」への苛立ちがあったり、はたまた、意識が滅しそうなところにいきそうになったりと、すったもんだしていました。

でも、最後の21・世界では不思議と、未知なんだけど不安なく、ちょっとワクワクを胸に宿しつつたんたんと、描きすすめている自分がいました。

先生がテキストを音読してくれる、その声から教わることが多かったように思います。たぶん、ただ読んでいる、というのではなかったんだと。。。

とにかく、それで、21を描く少し前から、これまで見えてなかった景色が見えている気がしていて、でもこれは一時のマイブームで終わるものかもしれないし、そうでないかもしれないし、どちらかはわからないんだけれど、

でも、たしかに、ずいぶん気持ちは違うのです。

だから数ヶ月前まで一生懸命打ち込んでいたことや、今やっている仕事でさえ、「もうずいぶんな過去の中のこと」のように感じられていて。

こんなふわふわした抽象的な言い方しかできないので、あれなんだけれども、、、。

この先、見えている景色の中を歩いていくのには、不思議なくらい不安がなくて、

(多大な期待や抱負なんていうのもなくて)

なんだか実に、安心の源のようなとこへ還るといったふうなんだー、ということを書き留めておこうと思いました。

こういう感覚は、なじみがないので、いつまで続くかな、とも思うけど。。。

この、「大丈夫」感のなかに、いまはいます。

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2007.10.04

Soil, Soul, Society

今、サティシュ・クマールさんの「君あり、故に我あり」という本を読んでいて、昨日読んだところに

三位一体

について書いてありました。サティシュさんは、人間の大志がトリニティ(三位一体)によって現されてきたことが多かった、と言っています。

キリスト教のビジョンをインスパイアしたのは「父と子と精霊」。

アメリカという国の礎となったのは、「Life, Liberty, Pursuit of Happiness(生命、自由、幸福の追求)」。

フランス革命の原動力となったのは「自由、平等、博愛」。

いわゆる「ニューエイジ」ムーブメントの核心は「マインド、ボディ、スピリット」。

サティシュさんは、これらを踏まえて、今の時代の三位一体として

「ソイル(土)、ソウル(心)、ソサエティ(社会)」、

自然と社会と自己をはぐくむ三位一体を、考えておられるそうです。(というか、自然と社会と自己が全体をつくる、という思想は、インドでは古くからあって。。。)。

どんな三位一体も、人間以外の存在を差別している限り、全体的にはなりようがない、と思っておられるようでした。

人間以外の生き物、そして土や水や空気を大切にする、ということが、この本には繰り返し出てきます。

これを聞くと、ほっとします。実践するのは、まだチャレンジな部分も多いんだけれど。。。

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2007.10.01

おんぱく

こちら東京はいきなり秋に。。。つい一週間ちょっと前に、だだっぴろい公園で、陽射しに射抜かれて汗だくになっていたのが、夢のよう。。。

汗だくになっていたのは、京都の公園で、くるりがオーガナイズした野外フェス、「京都音楽博覧会」ででした。「京の街中でこじんまりと、音も控えめにして」やるらしいと聞いて、行きたくなったのでした。

アコースティックな響きを大事にした、ライヴでした。アイルランドや沖縄の土地の音楽、ルーマニアのジプシーの音楽、アメリカのロック、京都のロックなどなど。土地もジェネレーションも交差してて、くるりの音楽への心持ちが、伝わってくるラインナップでした。

沖縄のシンガーとして、Coccoも来ていました。ギターとうただけのシンプルな編成で。のびやかな声が空いっぱいに広がって、そしてなんとも不思議なことに、彼女の歌声、こだまが返ってきていました。それで後ろを振り返ったけれど、ステージの逆側には、とくにこだまを返すようなものも見えず、空が広がっているだけ。。。

青空のどっかから、こだまが返ってきていた。少し向こうで立って聞いてた男性も、後ろを仰ぎ見て、不思議そうでした。

Coccoは、ずいぶん機嫌がよさそうで、自分でも「うかれてるよー」と言ってました。京都へ来たのが初めてだったそうで、前日に京都入りして、リハも早々に終えて、街中を見て回ったそうで。それで鴨川べりを歩いていたら、辺野古への米軍基地の移設に反対している人たちに出くわして、チラシをもらって説明を聞いて、そのチラシを、ホテルでお風呂に入りながら読んだー、と話してくれました。

そのチラシには、「沖縄に基地はいらない」と書いてあったそうで。沖縄の人であるCoccoは、沖縄の人のあいだに、基地に対していろんな思いの人がいることや、いろんな経緯が今まであって、基地がすでに暮らしの一部になっていることやなんかが、いっぺんに胸に押し寄せるみたいで、だから自分は「基地はいらない」と言い切ったりはできないんだけれど、と言いながら、

ついこのあいだの6月に、その米軍基地を移設してヘリポートを作ろうとしている辺野古の海に、ジュゴンが2頭現れた、という話をしてくれました。ヘリポート建設のために、海底に国が設置した調査機の真上を泳いでいる姿がニュース映像で沖縄じゅうに流れたんだそうです。

(ちょと前に、新聞で、基地建設に反対する運動をする人が海にもぐり、海底調査機の操作をしにきた国の側のダイバーともみあいのような感じになって、酸素ボンベの栓が閉じてしまって危なかった、というような話を読んだけれど、まさにその地点。。。)

2頭で仲良く泳ぐ姿を見た彼女は、こうして辺野古の海に帰ってきてくれたジュゴンには、しっかり向き合っていかなくては、と思ったんだそうです。

そういうようなことを、彼女は、大きな野外特設ステージの上にちょこんと座って、話していたんだけれど、でも、まるで、一緒に座って、お茶でも飲みつつ話を聞いているような、そんな感じがしました。

「こう思ったんだ」という本人の体験を、一人称で話してくれていたからかな。いちまんごせんにんと話しているのに、パーソナルに話すことができる彼女を、すてきだなと思いました。

しかしくるりは、このフェス、完売御礼でも赤字になることをわかっていてやっていたそうです。かっこいいことですー。。お客さんも、すてきだったなあ。途中、ちょっと飲み物を買いに行っているあいだに、あっという間に大雨になったとき、荷物をおいていた芝生に駆け戻ってきたら、わたしたちの後ろに座ってた人たちが、わたしたちの荷物をビニール袋に入れて、濡れないようにしておいてくれたりしました。

いろんな意味で気持ちよいフェスでした。飲みのものや食べ物も、その場でていねいにつくってくれているものばかりで。リユース用の食器を会場で洗ってくれていたボランティアさんたちのおかげで、ゴミもほんとに少なかったそうです。

■京都音楽博覧会のサイト(また来年もありそうな~。。。)
http://www.kyotoonpaku.net/

■ジュゴンのニュース映像と、Coccoのうたう「ジュゴンの見える丘」の映像↓(京都でのライヴ映像ではないけれど。。。ゆりちゃん教えてくれてありがとう!)
http://www.cocco.co.jp/contents/index.html
(「期間限定スペシャル映像はこちら」と言うところをクリック)

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