記憶
昨日のことです、朝、お出かけの道すがら、電車の中でふいに、11年前に職場で亡くした同僚のことを、思い出しました。
そのときの職場がどんなに過酷だったか(自分にとって、主観的に)。
同僚の死が、どれだけ自分の人生のルート変更に影響をしたか。
そのときの職場で一緒だった人のうちもう3人が他界していて、同僚の死に濃く関わっていた人も、もうこの世にいないこと。
そうやってじゅんぐりに思い返していて、
この過去のできごとの自分の記憶が、「そのできごとを経てこれこれこういうふうになりました」という、なかば固定された「自分史の一展開」になっていることに、気づきました。
単純に図式化することで、扱いやすいハンディな記憶になっていた。いつでも簡単に取り出して「これが理由です」と言えるできごととして。
そのできごとのまわりにあった、あわやいもの、言葉にしにくいもの、矛盾していて整理のつかないいろんな気持ちは、どこかに行ってしまって。
記憶っていうのは、こうやって、ツツジの植え込みみたいに、こざっぱりと刈り込まれていくものなのかな。。。
と、そんなこんなを思い巡らしていたら、
同僚の死に濃く関わっていた(と私が思っている)人について、なにか否定的な気持ちをもったままだった自分に、気づきました。
彼には才能があって、尊敬していた。というのが、「刈り込まれた」記憶の中での位置づけでした。
酔わないと、思っていることを口にできないような、口にできたとしてもどこか表現がずれちゃうような、シャイで不器用な人だったから、とわたしはいつも記憶の中の彼を、かばっていた。
でも、許せないと思っていたところがあったようでした。ほとんどかすかなレベルで。
そのことに気づいた昨日、電車の中で、わたしは、これまで思い至ることのなかった彼の想いを想像して(「ひょっとしてあの人にとっては、こういうことだったんじゃないか」と)、そうしたら、なんだか泣けてきました。
目に見えない小さいわだかまりだった「許せない気持ち」がそこで、溶解したようでした。
* * *
長い年月を注いで彼がやっていたことは、この時代や前の時代の「記憶」へのアクセスルート作りでした。
記録ではなくて、記憶。しかも個人レベルのものではなくて、社会的なもの。
彼は「写真編集者」として、その仕事に取り組んでいました。
記録と記憶。
彼がこだわったのは、記憶のほうでした。
生きて動いていく、有機的なもの。











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