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2008.11.27

ユラユラ

Photo_4 ワインのコルクとシーグラスで、ツリーの工作を試みていたとき、派生的にモビールができあがりました。

輪切りにしたワインコルクの真ん中をくりぬいて、そこに小さいシーグラスをはめ込んだものを、サンゴの枝にぶらさげただけですが。。

頭上にユラユラするのものがあるのは、なかなかいいです。Photo_5

モビールづくりのアイデアをくれたさっちゃん、ありがとう☆

* * *

先日久しぶりのともだちと、川べりで、再開をゆっくり楽しみました。いろんな興味深い話を聞いたり。

そのなかで、人工甘味料について彼女がしてくれた話が、ずっと気になっていました。

わたしにはそのときよく把握できなかったんだけれど、彼女は、人工甘味料とは、甘さが本当にはそこにないのに、甘いというふうに「神経に」伝えるものだ、と言っていました。

実体はそこにないのに、神経だけは、あるかのように刺激を受ける、ということらしかった。。。どうしたらそんなことが可能なんだろう?とフシギに思いました。だって味覚で甘いものは甘い、それは実体験だし。。と。

しばらく、このことを考えるともなく考えていて、ネット上であざやかな画像を見るのと同じことかな、と思い至りました。

ネットだけでなくテレビも映画もか。。あざやかな画像は、まるでその実体を見ているような気にさせてくれるけれども、実体はそこにはなくて、信号だけが神経に伝わっている。。。のですよね?

ほんとうに人間、フシギなテクノロジーをつくれるものです。

でもモビールの画像から、モビールがどんなぐあいにユラユラしているかの実感が届くってことはないですね。。

自転車で坂道を降りるときの、体の充実感とか。神経への信号だけで再現できないことはいっぱいあるぞと思い出すと、ほっとします。

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2008.11.24

クリスマスツリー

冷たい雨のおやすみ日です。家で工作をしています。

ワインのコルクでモミの木をつくろうと思い立ったのは、おとといの夜でした。

コルク1コを、カッターで縦に半分に切って、それをまた半分に切って、それをまた半分に切って。それをいろいろいじりまわして、どうしようか考えていました。

Photo_2ビーチコーミングの収穫箱に、短い流木を見つけて、糸口が見つかりました。切ったコルクの端を斜めにカット。流木を幹にして、グルーガンで 貼り付けていきました。トップには落とした端の部分を利用。もう1つのコルクを輪切りにしてスタンド部分にしました。

一応ツリーの形になったけれど、これだけだと少しさみしかったので、シーグラスをあいだに挟んでみました。ビーチコーミング収穫箱の中から、ちょうどいい形のシーグラスを選んで、バランスを見ながら挟むように貼り付けていきました。

Photo_5Photo_6 最後は、光る薄い貝がらを一番上に飾りつけ。赤い貝と、白い貝の2枚。

手でちょこまかするのがたのしいこの頃です。

* * *

昨日おじゃましたお宅で、クリスマスツリー売り場に人が絶えないのを見た、とある人が言っていました。

それに対して、幼児洗礼を受けているという方が「どうして人はクリスマスツリーを買うんだろう?」と言いました。

飾り付けるためでしょ、とその人のパートナーは即答したけれど、ご本人はなにかもっとほかのことを考えていたようでした(でもわたしにはよくわからなかった)。

なんとなく気になって、わたしも「どうしてなんだろう」とあとで考えました。

ツリーはクリスマスのシンボルで、そしてクリスマスはクリスチャンじゃない人にとっては、ひとつの楽しい季節行事になっているということ。

クリスチャンの人にとって、もしかしたらこれは不快なことなのかもしれない、大事なことがケイハクに扱われているようで。。。?

でも同時に、もしわたしがクリスチャンだったら、クリスチャンかどうかにPhoto_8 かかわらず、人がこの喜ばしい季節に、木に飾り付けをしたりして楽しいひとときを過ごすのなら、それはそれで、と思うかもしれないなあ、とも思いました。

けど人それぞれ、いろいろありそうです。。

* * *

フランシスコ会(聖フランチェスコが始めたという会)に入ると、そのしるしにいただくタウの字をかたどったペンダントがあるそうです。タウのペンダントは、聖地アッシジではおみやげもの屋さんの軒先でもたくさん売られているそうで、会に入らなくても手にすることができます。

外国のサイトの掲示板で見たんですが、ある、フランシスコ会に入っていない男性が、聖フランチェスコのことを慕っているのでこのタウのネックレスを身に着けたいんだけれど、フランシスコ会会員の方たちに対して失礼になるでしょうか?と問い合わせていました。

会員の方たちの反応はさまざまでした。おおむね、はっきりとした信仰を持っているんでないなら身につけないでほしい、という感じでした。

1人、会の公式見解を聞いてみます、という人がいて、その転送された返答は、聖フランチェスコを慕う気持ちのある方なら、どなたでも自由にタウのペンダントを身につけていただいてかまいません、という内容でした。

結局問い合わせをした男性は、よく考えてみてから決めることにしま す、会員の方たちの気持ちを損ねるのは避けたいので、とおっしゃっていました。

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2008.11.20

「築いてゐた蜃気楼の消えるのを見て」

『宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死』という本を読みました。とっても興味深かったです。彼がサラリーマンをしていた当時の時代背景は、金融危機の余波が日本に到達して、暮らしがきびしくなっていく頃。

宮澤賢治は、いろいろと仕事に関して葛藤があった人みたいでした。詩や童話を書いていればよかった、というふうでは全然なかった(生前は詩人・作家であることで生きていくことはできませんでした)。

いろんなことをやってみようとしたり、親のすねをかじることになったり、コミュニティの活動をしたり、病に倒れたり。。

紆余曲折を経て、最後、病気で亡くなるまでの日々は、ビジネスの世界へ。

彼のビジネスへの関わり方を読んでいて、これは、精神としては「スロービジネス」に近いなあ、と思いました。

利益主義、儲け主義ではなくて、人や土地を思いやる気持ちがなにより先行していたらしいからです。

売り上げを上げることに一生懸命でした。自分の体調が悪いのを押して営業にかけずりまわっていました。でもそれは、工場で働く人たちの暮らしのため、そして手がけている商品の石灰によって、不作がちな東北地方の土壌が、もっと豊かな土壌になっていくという大きなビジョンのためでした。

でもそのビジネスも、結局病弱な体がたたって最後には手を離すことに。

亡くなる10日ほど前に、かつての教え子に向けて書かれたという手紙が印象的でした。

僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲けり、いまにどこからかじぶんをいわゆる社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活してかえって完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かが空しく過ぎてようやくじぶんの築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、ただもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。

あなたは賢いしかういう過りはなさらないでせうが、しかし何といっても時代が時代ですから充分にご戒心下さい。

風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、じぶんの兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。

そんなことはもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。

どうか今のご生活を大切にお護り下さい。上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて生きませう。

いろいろ生意気なことを書きました。病苦に免じて赦して下さい。それでも今年は心配したやうでなしに作もよくて実にお互心強いではありませんか。また書きます。

(『宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死』佐藤竜一著より)

* * *

先日、ヘレナ・ノーバーグ・ホッジさんたちが作っている小さい映画の上映会(幸福のための経済~“GDP成長”主義 から “幸せ主義” の経済へ、グローバリゼーション から ローカリゼーション へ)に行って、生きるということのどんなに隅々にまで、おおーきな「経済システム」の影響が行き渡っているか、を思いました。

物心つく前から、小さな子供たちの心にまで多(無)国籍企業の商品やそういうものに囲まれたライフスタイルへの憧れや欲望が植え付けられて。。

グローバルな経済システム、お金が行き来する物事に巻き込まれ、取り込まれて、お金をかせがなければ生きていけない、というふうに、地球上のみんながこの経済のシステムに依存するよう仕向けられていっていて。。。自給自足で暮らしていけていた場所でさえも、新たな市場を探す企業によってどんどんこのシステムに取り込まれていて。。

そして多くの国の政府が、巨大な多(無)国籍企業に有利な貿易規制や税制、補助金制度で、この経済のグローバル化を後押ししている。

この巨大なシステムがどういう仕組みになっているか、という「ビッグ・ピクチャー」を理解すること、そして、ローカルに自足する度合いを高めていくことが大切、ということみたいでした。。。

必要なものを自分たちの手でつくっていくこと。経済システムにまみれてしまわないこと。。

飽くなき欲求や、永遠のGDP成長神話を追いかけるかわりに、足るを知ること。。。「風のなかを自由に歩」いたり、手仕事の充実や、音楽や踊りや、人との有機的なつながりによって、こころを満たしていくこと。。。

今の金融危機は、「築いていた蜃気楼の消えるのを」見るように、方向転換するきっかけになるのかな。

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2008.11.15

ほっと

Photo_2 久しぶりになにも用事のない休日でした。

父の家の庭の柿をたくさんいただいていたのが、やらかくなってきたので、柿のジャムをつくりました。

柿3個・レモン汁大匙1・メープルシロップ大匙3を一緒に煮詰めるだけ。。。メープルシロップは高いから、もったいないーと思ったけれど。。今回はとくべつです。(でも少し甘すぎたかも、もう少し少なくてもいいな)

日差しの暖かい時間帯は、開け放した窓のとこで、猫をひざにのっけて、裂けたり破れたりしたままだった踊りの稽古着を繕いました。

夕方になって、お腹がぐーっと鳴って、お昼ご飯を食べそびれていたことに気づき、柿ジャムのトーストを早速食べました。ホットマヤナッツオーレでほっと一息。。

Hoverhover 暗くなって冷えてきたら、Bonobosのアルバム「Hover Hover」を聴きたくなりました。このアルバム、毎年この季節になると、聴きたくなる。。。ラストの曲「スカートガール・ブルース」が、ほんとーうにすきです。

* * *

昨夜、タロットの引き方を教えてくれる小さい講座に出たら、そのあと、こころの中がすごく ほあーん としました。今日こんなにほっとできたのは、たぶんそのせいだ。。。

タロットのどんなところが好きですか、とパートナーが先生にたずねたら、先生は、「カードを切っているときの感じというか雰囲気というかが。。。」と言っていました。

あとで、カードをまぜるときのコツを教えてもらいました。こうであってほしい、ああであってほしいという自分の気持ちはとりあえず、ちょっと、脇に置いておいて、予感みたいなものを手元のカードに集めてくる感じで、くるくると。。「わたあめをつくるみたい」に混ぜたらよいそうです。

タロットは、予感みたいなものを扱うもの、とおっしゃっていたのが印象的でした。

カードを丸くまぜまぜしつつ、わたあめをつくっている感じが、楽しかった。

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2008.11.13

嘘のあり・なしとは

お気に入りの下高井戸シネマで先日「ぐるりのこと。」を見ました。

わかりやすい感動ではない、言葉にならないことが、丁寧にたどられていく映画でした。上映後にとなりを見ると、鼻が真っ赤な人がいた(泣きすぎ)。でもわたしもおんなじだったみたいです。

橋口監督、すごい、とおもいました。男とか女とか、被害者とか加害者とか、いい人とか悪い人とか、同性愛とか異性愛とか、そういうわかりやすい分類を、ほんとうに越えてる視点がありました。

なにも安易に「昇華」しないし、かっこつけようとしたり、笑いをとろうとしたり、答を出そうとしたりといった、といった「作為」も通り越していて。

作り手に嘘のない映画だな、と思いました(映画っていうメディアは、そもそも存在自体が嘘なのに)。

役者さんの演技とかストーリーラインとかセットのディテールがどうこうってことじゃなく(それらもここまでやるかっていうほどリアルなんだけど)、なんか、なぜか、そういう次元ではない次元で、嘘くささがない感じがしました。

ほんの少し前の時代の「空気感」を再現していたところにも脱帽しました。今とははっきり違うような一昔前の時代よりも、まだ今と地続きの、ほんの数年前の時代の空気を再現するのは、ずっと難しそうなのに。。

予告編

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2008.11.10

「たのしくあかるい」

聖フランチェスコという、800年前の人に、このところすごく興味を惹かれていました(やっぱり、個人的な信仰とは直接関係ないのだけれど。。)

小鳥や狼と話ができたらしい、と知って思い出しました。
ブラジルで、コーヒー農場で働く人や、まわりの動植物、自然を思う気持ちから、コーヒーの有機栽培を広めようと力を尽くしていた故カルロス・フランコさんも、聖フランチェスコを敬愛していたらしいこと。

うーん、カルロスさんも、小鳥や狼と話ができそうなイメージがあるな、と(お会いしたことはないのに)思っていたら、

小鳥と話をしていた、茶色いローブを着た人の記憶がよみがえりました。

幼稚園の園長先生。

Photo_2園長先生は、茶色いローブで歩いてはいたけれど、ほんとに小鳥と話したりしてたっけたかな。。教室でカナリヤを飼ってはいたけれど。。。と思い出すうちに、幼稚園のバッジかなにかに、小鳥と話す茶色いローブの人の図柄があったような気がしてきました。

それで調べてみたら、わたしの行った幼稚園は、聖フランチェスコの始めた会(フランシスコ会)と直接つながっていたことがわかりました。

そればかりか、生まれ育った街も、20世紀初頭から、日本でのフランシスコ会の主要な活動拠点の1つだったことを知りました。

* * *

聖書の教えは、飲み込めないことが多いです。読むと胸がふさぎます。

でも聖フランチェスコには、胸がふさぐような感じはありませんでした。ほんの少し本を読んでみただけだけれど、彼から感じる一番のことは、歓喜でした。

「まことはたのしくあかるいのだ」(「青森挽歌」)とうたった、宮澤賢治を思い出します。。

聖フランチェスコも、考えでも行為でもシンプル(単純)であることを望んで、持ち物を持たず、自分を誇らず、質素な暮らしをして、歌が好きだったみたいでした。

太陽も、月も星も、風も、水も、炎も、大地も、みんな兄弟・姉妹だという歌をつくりました。

死を間近にした病床で、その歌の最後に「肉体の死」も姉妹だという節を付け加えています。

自分を誇らなかったのは、すべて神さまの業、神さまの恵み、と感じていたからのようです。だから誰かにしてあげたことで喜ばれたとき、その感謝の気持ちが自分に向けられたりしないよう、気をつけていたみたいです。

(これは現代に生きるエクアドルのシャーマンもそうだと、こないだ聞きました、病気を治してもらったりしたときに、シャーマンにお礼を言ってはいけないんだそうです)。

* * *

フランチェスコは「アッシジのフランチェスコ」とか呼ばれます。アッシジはイタリア中部にある小さい街。フランチェスコの伝記を書いた別の人の名も、「チェラーノ(地名)のトマス」とかいうふうにいわれています。

俗世で生きることをやめるときには、苗字を捨てて、「どこどこの誰」というふうに、土地の名前が苗字代わりになったようです。

どこに属してるかの意識が変わると、気の持ちようも、さぞ変わるんだろうと思いました。。

★聖フランチェスコは、1979年に、当時の教皇から「Patron of Ecology(生態系の守護聖人)」と宣言されていて、環境保護に携わる人を守っている、と受け止められているみたいです。

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2008.11.06

ちいさい私

Img_2657善悪の知識の木の実を食べてしまったから、楽園から追放されることになった、ということについて考えていて、

(自分の個人的な信仰とは直接関係ないのだけれど)、

どうしてこの、善悪の知識を持つことが、堕落を意味するんだろう、と疑問でした。

知識を持って、自分で考えられるようになることは、すてきなことのように思えました。

だからポイントは知識を持つことじゃなくて、「善悪の」という部分かな? 善悪の判断をすること、自分がそれをする資格があるつもりでいることが、問題視されているのかな。。

なぞと、うつらうつら考えていて、

善を知ったつもりになることは、悪を知るのとほぼ同じようなことかも、と思いました。

よかれと思ってするさまざまなことや「最善」と考えていることやなんかは、わたしの見た範囲内での「よかれ」や「最善」なのである、ということ。

わたしから見える範囲というのは、とっても狭いばかりか、他の場所(人)から見える範囲とは当然違ってる。。

もっと大きな視点、たとえば個を越えた、山とか森の視点とかは、また違うスケールの時間と空間を持っているのだろうし。。

* * *

昨日、ひさしぶりにプロセスワークのセミナーに出ました。

プロセスマインドは、その、小さい個の意識をゆうゆうと内包している、大自然のような感じなんだな、と思いました。

個の意識よりも大きい意識は、2極に対立してしまったものや人や状況を、衝突以外の方法で乗り越えることができちゃうんだ。。

PS 「心と体」というカテゴリーはやめにしました。そうやって分けて考え続けるのがなじまなくなってきました。ひとであるってことは、同時にいろんな次元に渡っていて、それらは分かれてはいないから。。

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2008.11.04

簡単ファブリックシール

この連休は、高尾山1000人ハイク(「高尾山にトンネルをほらないで」Tシャツを着て高尾山に登るハイク)をしてきて、その翌日には、ものすごい早起きをして朝から実家のある街まで出かけて、おまつりのバザーの手伝いをしてきました。

2日続きでこんなふうにアクティブに過ごすことは稀で。。要リハビリな今朝です。。寝不足なのが一番つらい。。

バザーでは、小学生の女の子達が小銭をにぎりしめてお買い物に来ることが予想できたので、なにか楽しいものを出したいと思って、ファブリック製のシールを、余り布で手作りしてみました。

Dscf0001

まずは消しゴムをけずって、花のモチーフのスタンプを作製。晒し木綿のきれっぱしに両面テープを貼って裏返し、スタンプを押して、布バサミで丸くカット。

織り模様や凹凸模様のある余り布の場合は、ただ両面テープを貼って、丸や四角に切り取るだけで完成です。

(くたくたになるまで着たお気に入りの服や靴下など、お下がりにもできないな、というアイテムも、きれいな部分だけシールに。。)

最後に裏返して、剥離紙の中央に軽く切り込みを入れてあげると剥がしやすくなります(力を入れすぎて下まで切れないように注意!)。もしくはクッキングペーパーをカットした「台紙」に貼っておくのも、使いやすいかも。

Dscf0004

イロイロ袋の口を留めるのに使ったり(写真みたく)、お手紙の封筒にワックススタンプ風に貼ったり、プレゼントを包むときのワンポイントに使えるかな、

と思ったのですが、実は、ぜんぜん売れませんでした(涙)。。

女の子たちは「わー、これなにー!」と言ってしばし眺めてくれるのだけれど。。

値段設定が悪かったのか、使用例のデモンストレーションを置いとけばよかったのか。。それともデザインが地味すぎたのかなー。。

こういう、こまこましたものをつくる作業は、作業自体が楽しいので、自分は満たされたけれど、

喜んでほしーなーと思ってた子たちに喜んでもらえなかったので、少しへこみました。。。

* * *

でもスタンプって、消しゴムとカッターさえあれば、特別な用意をしなくても思い立ったときに作れて手軽です。手ごろな消しゴムがないときは、さつまいものしっぽのところとかを使ってもいいし。。

Photo今回のスタンプのモチーフにしたのは、この写真。カール・ブロスフェルトという、19世紀生まれの植物学者&写真家の写真集「Art Forms in Nature」(初版は1929年)に入っている1枚です。

この写真集、全部、モノクロの、植物の接写写真ばかり。植物がどれも、あまりにデザインに優れていてびっくりします。

大自然というのは、なんともすごいデザイナーです。

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2008.11.01

遠回り

Dscf0018_1最近、クッキーづくりにちょっとはまっています。

おとといは、ハロウィンに合わせて、かぼちゃの種を入れたクッキーを焼いてみました。

父の畑でとれたかぼちゃ、煮て食べたら甘くておいしかったので、その種を煎って、剥いて、ごますりで粉状にして、使ってみました。

マヤナッツも少し入れて、あとはこむぎこ、オリーブオイル、水、メープルシュガーのみで、とっても簡単です。思い立ったらすぐ始められる。

少し前から焼いているマヤナッツ入りのクッキーが、お年を召した方から「硬い」とフィードバックいただいたので、オリーブオイルの量を大匙1増やして、そのぶん水の量を減らしてみたら「カリカリクッキー」だったのが「サクサククッキー」になった。ふーむ、なるほど、という感じでした。

当たり前の変化だけれど、食感の変化を実感するのが楽しかった。。なんか化学実験みたい。

* * *

このあいだは、姪っ子のお誕生日に、簡単レモンクッキーを焼いて、レシピとクッキースタンプを付けてプレゼントしました(結局虹色のペンケースと両方あげたのでした)。

Dscf0003しろくま(雪結晶柄)と、くろくま(王冠柄)の、クッキースタンプは、かなりかわいくて。。。あげるのがもったいないなー、と思ったりもしましたが。。でもあげた。

手でつくる楽しさ、伝染するかな?

* * *

オーブンがなくて、古いトースターで焼いています。少しずつ様子を見ながら時間を足して、こげ防止に途中からアルミホイルをかぶせて火力を調節します。

最近は、鼻が利いてきて、焼けていく途中の匂いの変化で、「今がホイルのかぶせどき」とか、「早めに取り出したほうがよさそう」と感知できるようになってきました。

「試行錯誤」という、遅くて遠回りの道を通ってるけれど、繰り返してるうちに、この古トースターのふるまい方とか、生地のふるまい方とかについて、だんだんわかっていくプロセスが楽しいです。

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