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2008.11.06

ちいさい私

Img_2657善悪の知識の木の実を食べてしまったから、楽園から追放されることになった、ということについて考えていて、

(自分の個人的な信仰とは直接関係ないのだけれど)、

どうしてこの、善悪の知識を持つことが、堕落を意味するんだろう、と疑問でした。

知識を持って、自分で考えられるようになることは、すてきなことのように思えました。

だからポイントは知識を持つことじゃなくて、「善悪の」という部分かな? 善悪の判断をすること、自分がそれをする資格があるつもりでいることが、問題視されているのかな。。

なぞと、うつらうつら考えていて、

善を知ったつもりになることは、悪を知るのとほぼ同じようなことかも、と思いました。

よかれと思ってするさまざまなことや「最善」と考えていることやなんかは、わたしの見た範囲内での「よかれ」や「最善」なのである、ということ。

わたしから見える範囲というのは、とっても狭いばかりか、他の場所(人)から見える範囲とは当然違ってる。。

もっと大きな視点、たとえば個を越えた、山とか森の視点とかは、また違うスケールの時間と空間を持っているのだろうし。。

* * *

昨日、ひさしぶりにプロセスワークのセミナーに出ました。

プロセスマインドは、その、小さい個の意識をゆうゆうと内包している、大自然のような感じなんだな、と思いました。

個の意識よりも大きい意識は、2極に対立してしまったものや人や状況を、衝突以外の方法で乗り越えることができちゃうんだ。。

PS 「心と体」というカテゴリーはやめにしました。そうやって分けて考え続けるのがなじまなくなってきました。ひとであるってことは、同時にいろんな次元に渡っていて、それらは分かれてはいないから。。

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コメント

おはようございます。
今うちの子は3歳。
まだ楽園にいます。これは、断言します。
少しずつ善悪の知識の実を食べているところ。
春に幼稚園に行く時が、つまり楽園を出る時ですね。

>ポイントは知識を持つことじゃなくて、「善悪の」という部分かな?

同意。ただ私は「悪」の概念を持つことが問題なのじゃないかな、と思う。

たとえば生まれたばかりの赤ちゃんは、全てを受け入れる。触れてはいけないとされているものに触れるし、口に入れてはいけないものを口に入れる。

現在3歳の我が子は、ダンゴ虫を触ってます。
「ダンゴ虫は触ってはいけない」(=ダンゴ虫は悪)
という概念がないから。
でも幼稚園に入れば、
「ダンゴ虫は触るべきではないもの」
と、周りに言われ、触らなくなるかもしれない。

ダンゴ虫の存在を受け入れられなくなるわけです。
彼の世界から、ダンゴ虫は排除されるのです。

それはやはり、楽園から遠いかな。

で、少しでも長く楽園にいて欲しいなぁと思う母は、
野菜についてきた虫を怖がらないフリをして、
虫かごで飼っています。
ダンゴ虫は平気なんですが。


投稿: あさこ | 2008.12.07 03:28

あさやん、
ほんとだね、虫は悪だっていうアイデアは確かにあるねえー。。

そおいえば、前に友達が、人がごきぶりに「きゃーっ」というようになるのはいつごろか、を調査していたことがありました。。

やっぱり、大きい人たちが怖がりながら、これを殺さないと!ってがんばって格闘していたのを見た後であろうことは想像できるね。

で、その代々続く嫌悪感の連鎖って、フシギだなあとおもふ。虫と人とのあいだには、なにかひとかたならぬ関係性が、ふるーくからありそうな。。

野菜についてきた虫、ちょうちょになったりしてるんかな? 息子くん、養老猛みたいに虫好きのまま大きくなれるかもね!

投稿: な | 2008.12.08 14:42

こんばんは。
虫の話、とても興味深いですね。
実は私も昔、ゴキブリを怖いなんて思ってなかったのに、やはり周りの大人の反応を見て「これは怖いものなんだ」と認識したことを覚えています。
当時は飼っていたカブトムシなんかと変わらないと思っていて、怖がる大人を不思議に思ったものですが、今では立派に大苦手ですね(笑)。

ちなみに私は、善悪の知識を持ち、それを判断することが堕落を意味するというよりは、善悪を判断できたとして、それを理性や倫理によってコントロールすることが困難なことが問題なのではないかと思いました。
悪いと思ってもやってしまう、むしろ悪いと知っているからこそやりたくなるのが人間じゃないですか(もちろん全ての人間がそうではないですけど…)。

善悪の知識を持ってしまったずる賢いものを楽園に置いておくわけにはいかないから追放されちゃったのかなと、私は思いました。


投稿: しゃけ | 2008.12.10 02:57

しゃけさん、こんにちは :)
ほんと、そうですね。そこだなあ。。と思いました。

判断のあとの、行動のところ。。

やっぱり頭でわかっていること以外に、心(とか、はらわたとか)から出てくる衝動っていうものがありますもんね。

「全部の木から食べていいけど、この木からは食べちゃだめ」と言われて、知ってはいたのに、食べちゃった、という最初のところからして、誘惑に負けて(?)、行動をコントロールできなかったわけですもんね。。

うーん。。ひょっとしたら最初から、この特定の木の果実に「善悪の知識」が詰まっていたんじゃなくて、すでに善悪の知識がそなわっていた人間に対して「だめといった木から食べてしまうかどうか」という1つのテストだったのかもしれないですね。。 

テストに不合格だったので追放されちゃったとか。。

投稿: な | 2008.12.10 13:37

テストいうのは面白いですね!
確かにそう考えた方が整合性はつくかも。。

善悪の判断のつかない無垢な状態ですら言いつけを守れないのだから知識が備わった状態では言うまでもない…といった理由で追放されたのだとしたら、
それは善悪の知識がないからこそ蛇に食べるよう唆されたときにそれが悪い行いだと判断できずに掟を破ってしまったといえるわけで、
そもそも善悪の知識のない者に対して「善悪の知識の木の実を食べることは悪いことだ」と言うこと自体が意味をなさなくなりますもんね。。


まぁ
善悪の知識の木だけじゃなくて理性の木もあればよかったのになぁ…て思いますが(笑)

投稿: しゃけ | 2008.12.11 00:57

しゃけさん、こんにちは :)
遠方へ出かけていてパソコンチェックできずでしたが。。コメントありがとうございました!

理性の木、いいですね♪ 
無機質な理性じゃなくて、木みたいに有機的な理性があったらいいなあ。
ひょっとして、それをみんなで現在育て中ってことだったりして。。 

楽園を追放されたというと聞こえは悪いけれど、自分で考えてやってみる(うまく行動を調節したりがなかなかできなくても)、そういう力をはぐくむために必要な過程だったのかもなあ、なんて思います。

投稿: な | 2008.12.14 11:51

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