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2009.11.01

walk9・韓国巡礼

walk9・韓国巡礼にほんの少しの間だけ、参加させていただいてきました。

まだいろんなことが、うずまいていて、ちょっと混沌としてますが。。。

とてもとても印象深い旅でした。

フィジカルな意味での「歩くこと」は、思っていたよりも大変ではなくて、でも、こころの中は、とてもいろいろなことが起こって、大変でした。

でも、すべてが、おめでとうだったな、と感じています。

Walk9 Walk9_3 Walk9__7Walk9__8 歩いたのは正味3日半でしたが、まるで高速道路みたいな道や、たくさん車のとおる街道、山道、大都市の歩道、街中の住宅街の静かな道、田畑の広がる田園の中の道。。。と、いろんな道を歩きました。

Walk9_2Walk9__9 (ス)さん&(ひ)さんと、有志とで握るお昼のおにぎりは、毎日とびきりおいしくて、ありがたかったです。

walk9のメンバーの方たちは、それぞれに、さまざまな役割を分担しながら協力し合っていて、だからこそ、このウォークが成立していることをひしひしと感じました。

伴走車を運転してくださるメンバー、皆が歩いている間に次の拠点まで全員の荷物を運んでくださるメンバー。ルートを調べてくださるメンバー、ペースを維持して車に気をつけながらウォークの列の前後を守ってくださるメンバー。朝・昼・晩の食事のケアをしてくださるメンバー。みんなのまとめ役のメンバー、全体のウォークの進み具合や各地での勉強会・交流会を調整してくださっているメンバー。日韓の通訳をしてくださるメンバー。ビデオ・写真・ブログで記録を残してくださっているメンバー。お金のケアをしてくださっているメンバー。1日の終わりに音楽を奏でて空気をやわらかく整えてくださるメンバー。日本でバックアップしてくださっている事務局のメンバー。

「ひとりでは、できないことでも、みんながひとつになれば、できます」。宿のお世話をしてくださった、ポッタリハッキョ(訳すと「ふろしき学校」)というフリースクールの(ソ)さんのお言葉を、思い出します。

* * *

わたしは歩き始める前に、まずプサン(釜山)でみなさんと合流して、音楽イベントと、釜山の歴史の勉強会に参加しました。

Walk9_4 音楽イベントは、想像以上の規模でびっくりしました。大学正門前の幅広い道に、大きなステージが2つ、設営されて、両ステージの間でふさがれた道路が、観客席。

韓国からのミュージシャン、日本からのミュージシャンが交互に舞台を交換しながら演奏して、地元の若者たち、Walk9のメンバーたちが、元気に踊りまくっていました。

湘南から来たハーフムーンさんのステージでは、「海、海、だいすき ありがとう」という詩のうたを、「パダ、パダ、チョアヘヨ カムサヘヨ」と韓国語にも訳していただいて、みんなで一緒にうたいました。ここ最近のわたしの気持ち、そのままの歌で、うれしかった。

釜山の歴史の勉強会は、町を歩きながら、先生が説明してくださいました。

「今立っているこの場所は、かつて、日本が現地の人たちに労働させて埋め立てたものです。龍頭山と伏兵山のそれぞれ半分くらいを削って、その土で埋め立てました」。龍頭山は、聖なる山だったのに、です。

そして龍頭山から連なっている龍尾山という山は、今現在、削られて、日本のロッテがその地に高層ビルを建てている最中とのこと。見れば、そこに山があったとはわからない工事現場でした。先生は「龍尾山を削って、ロッテがここに高層建築を立てるのは、それもそれで深い意味があるんです」と苦々しい表情でおっしゃっていました。

Photo_2 それから、浮島丸事件(第二次大戦後、日本からようやくふるさとへ戻ろうとした方たち、4千人近くを乗せた船が、舞鶴港で沈没してしまった事件)の犠牲者を追悼する碑にも案内してくださいました。

沈没せずに航海できていたなら、このプサン港にたどり着いていたはずだったそうです。沈没理由の真相は、いまだ不明な点が多いそうです。

最後に先生は、日本の資本主義が発達した根っこのところに、アジアの植民地化があったことを、お話してくださいました。日本が享受した平和や繁栄は、先人の努力のおかげももちろん大きいと思うけれど、他国の犠牲の上に成り立ったものでもあったこと。そこを忘れないようにしようと思いました。

このあと、東学革命、先住民文化、シャーマニズムなどについて詳しい先生の講義を聞く機会にも恵まれました。東学については、知らないことばかり。お話を聞いても、わからなすぎて。。。これから、ぜひ学んでいきたいことの1つです。

* * *

イベントの日々が終わり、歩きはじめたのは、キメ(金海)から。西へ、チャンウォン(昌原)~マサン(馬山)~ハマン(咸安)~カヤ(伽耶)と歩きました。このあたりは、大昔、伽耶の国があったところ。

チャンウォンでは、お寺に泊めていただいて、お夕飯のビビンバをごちそうになりました。さらに盛大な交流会も開いてくださり、チャンウォンにお住まいの元従軍慰安婦のハルモニおふたりにもお会いできました。

おふたりのハルモニは、かなりの高齢で耳が遠く、目も見えにくくなってらして、お話されることもなかったけれど、メンバーの1人が、ギターを弾きながらアリランをうたうと、一緒に手拍子をしてくださいました。

Walk9__11音楽は、言葉を越えるなぁ、と思いました。一緒に歩いている韓国のメンバー、(テ)くんのオカリナの演奏を聞いていたときには、内側が完全に自由になる体験をしました。。

交流イベントでは、このお寺でお茶を教えていらっしゃる先生のお手前もありました。お茶を立てる前に、舞うのです。

それはそれは美しかった。。!

* * *

Walk9_10 Walk9_5Walk9_6伽耶の国のあった一帯は、とにかく、とても懐かしい地でした。こころの奥底の場所が、静まるような、不思議な感覚がありました。まるで数百年前のふるさとに里帰りしたみたいな。。。

Walk9_8_2 カヤを歩いているあいだ、そこここで、収穫したお米の籾を道 端に広げて干しているのに遭遇しました。

雨がぱらついてきたとき、通りがかった村のアジュモニたちが干していた籾を袋に詰め始め。。。

私たちもみんなでお手伝いしました。掬っては入れ、掬っては入れ、結構な体力作業でした。Walk9__10

Photo_4全部終わったら、お礼にといって、柿をくださいました。田んぼ脇の道で皮ごといただきます。おいしかった!!

Walk9__3さらに、おうちのお庭にお招きいただき。。。火をおこして大鍋にお湯をわかして。。。19人分のラーメンづくり。

このお宅の自家製キムチと、辛いラーメンをお庭でごちそうになりました。汗をかいた体に、ラーメンの塩味がうれしかったです。

このお宅のキムチは、少しシュワッとした食感があって、とってもおいしかった。キムチと柿は、おみやげにもくださいました。

Walk9__2カヤの近くで宿泊場所として提供していただいた建物は、まわり一面が田んぼ。小川があって、ぐるりを小高い山々に囲まれていて、ほんとうに落ち着けました。

ポツリポツリと民家があって、たくさんの農地が広がる一帯でしたが、宿の建物から歩けるところに、チムジルパンがありました。

石造りのドーム状のサウナで、炭火であたためられているものです。わたしは日本でサウナに入ると、すぐ息ができない感じになってつらくなるのだけれど、このチムジルパンは、とても気持ちのよい暑さで、2晩連続で入り浸ってしまいました。

チムジルパンの小さい石室の中で、ねっころがって話をしていると、いつもの対人緊張も出ず、ふしぎと落ち着きました。

私にとっての最後の夜、チムジルパンの中で、メンバーの(ソ)さんに、アリランを教わりました。なかなかにきびしい(?)特訓で、なんとかそらで歌えるようになって、うれしいです☆

Walk9__5 最後の日、カヤからチンジュ(晋州)の方角へ、ナンガン(南江)という川沿いの一帯まで歩いて、わたしの今回のウォークは終わりになりましたが、その後、帰りのバスに乗るために、車でチンジュまで送っていただきました。そして少し時間があったので、チンジュ城にも寄れることに。

チンジュは、 1590年代、秀吉の朝鮮出兵の際、特に激戦が繰り広げられた場所の1つだそうです。

Walk9__6 「1593年に殉難した7万の官・民・軍の忠魂を慰霊するため」に建てられた慰霊碑と、その戦を指揮した方たちを祭るために建てられたお堂に、お参りしてきました。

お城の敷地内はとても広くて、その一角には1919年の三・一独立運動で犠牲になった方たちのための碑もありました。偶然通りかかって、お参りできて、よかったです。

三・一独立運動も、本当に痛ましいことでした。

日本による統治下にあった1919年当時、独立と自由を訴える宗教指導者らによって始められたこの運動は、全土に広がり、一般大衆にまで浸透して、老若男女が参加する独立運動になりました。

わたしはこれまで知らなかったのです。

この運動は、非暴力を原則としていたこと。独立宣言の文言は、「人類平等の大義」と「民族自存」の原理を説いていて、”敵国”にあたる日本に対してさえも、「正しい友好関係を築くべき」としていこと。

でも日本の当局は、運動に参加する人たちを「暴徒」だとして、弾圧しました。丸腰で、両手を天に上げて独立を訴える、一般の方たちに対して、日本兵は銃弾を放ち、建物に火を付けました。

この地の犠牲者の方たちを思うと、胸が痛みます。同時に、銃弾を放たなくてはならなかった、日本兵の方たちのことを思うと、胸が痛みます。。

* * *

でもいろんな重たい歴史の事実に、どうしていいかわからなくなって固まるわたしとは対照的に、この地で生まれ育った方たち、日本で育ったけれどこの地にゆかりのある方たちは、とにかく、とてもあったかくて、フレンドリーで、思いやりのあるお人柄の方たちばかりでした。

Walk9_1若い(フ)くんは言ってました。「男性と女性とか、韓国人と日本人とか、分けて考えることそのものがもう違うと思う。おんなじ人間なんだから」

独りで歩く、ということが大事です、と正木さんも、東学の先生もおっしゃっていて、わたしもそれを実行した(つもり)だけれど、

老若男女、国籍も生い立ちもさまざまなみなさんと、一列になって歩いていたとき、みんなと一緒に歩けることがうれしいなー!という思いで胸がぽっとなった瞬間も、何度もありました。

韓国では行く先々で地元の方に宿や食事のお世話をいただき、日本からも、一緒に歩かなくともさまざまに応援していらっしゃる方たちがいて、そうした大きなサポートの中で、ほんの少しだけれど一緒に歩かせていただけたこと、本当に感謝しています。ありがとうございます。

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コメント

はじめまして

>日本が享受した平和や繁栄は、先人の努力のおかげももちろん大きいと思うけれど、他国の犠牲の上に成り立ったものでもあったこと。そこを忘れないようにしようと思いました。

それはないですね。むしろ日本は赤字でした。
特に朝鮮の開発には国家予算の2割を使い、その為に東北地方の開発が遅れ未だに後遺症が出ています。
台湾も似たようなものでしたし。
他のアジアも期間は短かったので、搾取も何もあったもんじゃありませんし、もともと独立させる為でしたから。
それから朝鮮は植民地ではありません。


3・1運動ですが、地方では暴徒が学校や役場を遅い、略奪・暴行・放火を行った為、総督府はやむなく治安出動で鎮圧しました。

自称被害者が本当に被害者とは限りません。
被害者だとしても証言が全て真実とは限りません。
朝鮮は国策で反日教育を行っています。

投稿: インスマス | 2009.11.01 23:15

インスマスさん、はじめまして、こんにちは。
コメントをありがとうございます。

インスマスさんのご意見も、あちらで教えていただいた先生方のご意見も、どれが正しいか、というのは、わたしには決めることはできませんが、

多くの歴史に関する見解と同じように、いろいろな見方がある、ということは、よくわかります。

でも、文字になっている記録や公式とされる記録も、鵜呑みにはできないという事実があるので、

少なくとも、お話をしてくださる人がいるときには、その方のお話と、その方の存在感の質とに、耳を澄ましています。

そして受け取ったことを、自分の心に入れています。

わたし以外のほかの人が、わたしと同じ考えを持つようになってほしい、という気持ちはなくて、自分が生きていくうえで、心に入れておきたい、というだけです。。

このブログは、わたしの個人日記というか、わたしの暮らしの防備録ですから、そういう気持ちで書いています。

日本と東アジアの歴史だけでなく、世界のほかの場所の歴史を見たときも、さまざまな犠牲の上に成り立っている”繁栄”や”平和”があることを、思ったりします。

私自身、なんらかの恩恵を享受するとき、その背後にある(かもしれない)犠牲に気づいていたい、と個人的にそういう願いを、いつももっているので。。


投稿: な | 2009.11.02 13:40

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