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2010.03.18

マヤナッツごはん

Dscf0014_2 あんまりフォトジェニックじゃないけれど。。今日のお昼ごはんです。

フレンチトーストと、にんじんのマリネ、どちらもマヤナッツ入り。

最近はお菓子でなくて「料理にマヤナッツ」が、マイブームになりつつあります。

お料理につかうときは、浅煎りの「マヤナッツパウダー」のほうで。

にんじんのマリネは、単純にオリーブ油とビネガーを混ぜたとこに、干しぶどうと、マヤナッツパウダーを加えてみたんだけれど、マヤナッツパウダーを加えると、あのカカオのような香りがふわっと立ち上ってきて、食欲をそそります☆

マヤナッツは、冬季鬱傾向をもってるわたしには、トリプトファンが多い、というのもプラス要素だったりします。

日ごろから愛用しているマヤナッツですが。。今度、マヤナッツにまつわるあれこれのお話+マヤナッツごはん、というイベントが鎌倉であるそうです♪

お話は、マヤナッツのフェアトレードで、グアテマラの森や人と仲良しにしている、みほちゃんです。

みほちゃんは、トークイベントのときは、毎回その場で言葉が「降りてくる」といいます。わたしもなんどか聞いてるけれど、毎回新鮮で、面白い。。。マヤの森と、彼女のつながりは、「普通」ではありません。。。今回は先日グアテマラの旅から帰ったばかりなので、またホットなお話が聞けそうです。

マヤの暦のシンボルをモチーフにした、グアテマラ出身の画家マルティンさんの作品展も同時開催だそうです。
マルティンさんの絵も、たのしみ☆

イベントの場所は、窓から鎌倉の海が一望できるすてきなカフェです。ふだんのドリンクメニューに「マヤナッツオーレ」があるみたい。

お料理の都合で残席数名みたいなんですが、一応案内を転載しておきます♪ 

* * *

森と人を幸せにするフェアトレード
マヤの森のお話会@麻心
 
遠くのマヤの森のことが私たちの暮らしと繋がっている?
どんなふうにつながっているのだろう?

中米グアテマラの森に魅せられた大田美保が、素晴らしいマヤの森のこと、
グアテマラの素敵な人たちのこと、燃やされていく森のこと、日本にいる私たちにできること、
そして、フェアトレードのマヤナッツのことなどをお話します。
一緒にお話しながら、森のことや、私たちの暮らしのこと、考えてみませんか?
当日は、麻心特製マヤナッツメニューもお楽しみいただけます☆

★雅紀与(MAKIYO)さんミニライブもあります♪
★グアテマラ出身の画家マルティンさんの絵画展も同時開催!

■日時:2010年4月9日(金曜)
■開場:19:00(19:30頃開始)
■参加費:2000円(マヤナッツを使ったお食事付き)【要予約】
■場所:The organic & hemp Style Cafe & bar 麻心 in 鎌倉長谷
http://www.magokoroworld.jp/
Tel&Fax (0467)25-1414

■申込&問合せ:グアテマヤ miho@mayanuts.jp
※3月3日までグアテマラ滞在のためお問い合わせへの返信は帰国後になります。

☆マヤナッツとは☆
マヤナッツはグアテマラのジャングルに生えるラモンという木の実です。100%自然からの恵み☆
低脂肪で必須アミノ酸・食物繊維・ミネラルなどバランスよく栄養を含む、マヤの人々が昔から食べてきたミラクルフード。
しかも、ノンカフェインで安心&美味しい!
麻心にて、マヤナッツコーヒーの販売開始、ドリンクメニューにも仲間入りしています♪

~マヤナッツが広げる幸せの循環~
森に住む女性たちはマヤナッツを売ることで仕事が得られ、森と共に暮らしていくことができます。
マヤナッツを飲んだり食べたりした人は健康になり、グアテマラの人々や森との結びつきを感じることができます。
マヤナッツはそんな幸せなサイクルを作り出してくれるのです。
詳しくは、マヤナッツプロジェクトHPへ→http://www.mayanuts.jp/

~大田美保プロフィール~
グアテマヤ代表 1991年に中南米放浪中にグアテマラと出会い、それからグアテマラを行き来している。
自分の生き方、魂が求めていることを探しているとグアテマラ、地球、私がつながっていった。
NGOティエラマドレプロジェクトを立ち上げ、現在、グアテマラの森と人を守るマヤナッツを日本に広げるべく活動中。
●ブログ:http://mayanut.exblog.jp/

~雅紀与プロフィール~
大地のうたうたい。2008年の11月から本格的に「うたうたい」として活動を開始。
徐々に歌う場所を増やしながら今に至る。スタイルとしては、ギターでの弾き語り。
ゆったりとした曲が多いが、力強い大地の声の持ち主。
●ブログ: http://makiyoo.seesaa.net/


---*-*---同時開催---*-*---
マヤ暦シンボルの絵画展@麻心
期間:4月9日~5月9日(4月9日のオープニングには作家の来場あり)

グアテマラ出身の画家、ドナルド・マルティン氏によるマヤ暦シンボルをモチーフとした
絵画作品を麻心店内に展示します。
出身地のグアテマラと、彼が「グアテマラに似ている」という富士山麓をこよなく愛するマルティン氏が
さまざまな手法で描いてきた絵は、グアテマラの精霊を体現しているかのようです。

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2010.03.16

言葉の出どころ・さらなるぐるぐる

今朝はめずらしく朝6時ちょうどに「ぱちっ」と目覚めました。猫もなにも言わず寝てたし、目覚ましも鳴らなかったのにヘンだなぁと思いました。そしてからだがじーーんとなっているなあ、としばらく観察していました。

今調べたら、今朝は6時01分に、魚座26度で新月だったんですね。。。

今は人生でいうと火星期の年齢に当たる、わたしの出世時の火星は、魚座の27度にあります。新月と、この火星が重なり合ってたのが「ぱちっ」と目覚めたゆえんだったのかな。。

* * *

起き抜けいちばんに考えていたことは、やっぱり、先日の吉本隆明さんの講演内容のことでした。

「自己表出」「指示表出」という言葉の2つの側面のほかに、彼が言っていたことで、こころにのこっているのが、

「表現によって、自然は必ず変化する。同時に人間も変化する。表現する人間は、自然から変化させられる。人間と自然の相互作用である」

表現することで、わたしは自然から変化させられている、って。。。そうなのかー、と。。。

ここでいう「表現」というのは、たぶん、公にするかどうか、口にするかどうかとは別の、あの「自己表出」の次元でのことだと、思います。

* * *

その、沈黙の中でも起こる「自己表出」について今朝考えていたとき、NVC(非暴力コミュニケーション)で教わった「サイレント・エンパシー(無口の共感)」というのを思い出しました。

相手に対して、「あなたは今こういうものを必要としているから、こういう気持ちなんだね」と口に出して共感するのでなくて、共感しつつも黙っていることができる。

そして黙っていても、それは相手に伝わる。。。特に子どもや動物には、如実に伝わる気がします。

サイレント・エンパシーの存在を思うとなおさら、「指示表出」用途ではない、沈黙の中での言葉の役割が、わたしの中ではっきりしてくるように思えました。

沈黙の中でわたしがなにかに気づいたり、思ったりするだけで、わたしは変化させられていくんですね、そして子どもや動物は、そうした「変化したわたし」にすばやく感ずく。。

それなら。。自分は踊っているとき、言葉と断絶していると思っていたけれど、そうではなかったのも。。。。。。

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2010.03.15

言葉の出どころ・その後

Dscf0001_2 今度、引越し先の町で、はじめての動物病院へ行かなきゃならなくなって、猫キャリーを入手しました。今までの猫キャリーは本人が大嫌いだったので、シャアモで人におゆずりしちゃってたのです。

新しいキャリー、やっぱり警戒してなかなか入ってくれないので、ふたをはずして、とりあえず猫ベッド仕様にして、陽だまりに放置すること1週間。

ふと見たら、こっそり入って昼寝をしてくれていました!

よかった。。慣れてくれたら、晴れて動物病院に行けそうです。

* * *

小さい仕事を1つ終えて、今日は晴れて自由の身、なのに、ネットサーフィンをたくさんして過ごしてしまいました。

というのも、昨夜、珍しくテレビを見よう、と思い立って、なんとはなしに見たNHK・ETV特集の吉本隆明の講演内容が、心の中にハテナ模様を描きながら留まってたからです。。

吉本隆明ってすごい思想家らしい、そして吉本ばななのお父さんである、ということくらいしか知らなかったんだけれど。。でも講演しているその83歳の彼が、熱にうかされたように語っていた(やせた体を車椅子にあずけ、痰をからませてなんども咳き込みながらも、言葉がとぎれる間もなくしゃべり続けた)、言語の2つの側面=「自己表出」と「指示表出」というコンセプトが、なんだか気になったのでした。

考える、思想する、というよりかは、印象によって物事を把握しがちなわたしにとって(汗)、あの吉本さんのしゃべり方は、やっぱり昔見たテレビで、版画家の棟方志功さんが、河井寛次郎さんのつくった茶碗をひたすらに愛でていたときのことを思い出させるもので。。。

圧倒的な「なりふりかまわず」感があって、「気がふれてしまってるんじゃないかな、このひと」と思わせそうなほどの、誠実さがあるように感じられました。

吉本さんは、言語は、他人と コミュニケーションを取るためだけにあるんでなくて、沈黙の中で、自分の中に生まれてくる想い(口にするかしないかは関係なく)のためにも、ある、と言ってたようでした。

他人とのコミュニケーションのための言葉を「指示表出」、他人とのコミュニケーションを目指さない、ただ自分の中から出てきただけの思いを「自己表出」と呼んでいるようでした。

そして「指示表出」は植物で言えば枝葉でしかなく、「自己表出」こそが幹である、と言っていました。

* * *

ネットサーフィンして、少しわかったのは、さらに吉本さんは、その「自己表出」というのは、内臓から来ている、と言っていたこと。

こちらのブログにありました。(以下引用させていただきますと)

「指示表出」の典型は名詞で、「木」といえば、「木」をイメージする。そこには、指示性があります。イメージするというのは、脳があるからです。脳の機能によって、イメージしているわけです。つまり、「指示性」は、明らかに脳が司る感覚的な認識によるものだということです。
一方、「自己表出」というのは心の表現です。「あっ!」といった感嘆詞などが、その典型です。そこには、別に指示性はありません。「自己表出」は、"自動表出"といっていいくらい、内臓からくる「臓器感覚」なんです。<中略>それは、「指示表出」のように、脳の機能によってイメージされるものとは違うんですよ。

(吉本隆明『超「20世紀論」下』アスキー より)

数日前、「言葉の出どころ」について考えていたとき、漠然と、

頭=受信機
こころ=発信機

として使うのがよいのかなぁと思いめぐらしていました。自分は、本来は受信機のはずの頭を発信機にしているから、出どころ不明の妙な言葉を発してしまうのかな、と。

受信しているだけだったのに、自分がそれを発しているんだと勘違いしたり。

そうやって頭ばかりで忙しくして、こころがおのずと”表出”するものとともにいることを忘れてたかも。。

でも、そこが幹だったんだ、さらには、目に見えない地中の根の部分も、その下にあるんだった。。と思ってみると、

もう少しまっとうな人間でいられるような気がしてくるです。。

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2010.03.12

春先の日々

 

長めにかかるお仕事をいただいて、締め切りに向けてノルマをこなす日々が終わった後は、だいたいいつもなんだけれど、なにをしたいのかがわからない、なにをしたらいいのかもわからないまま、生ける屍みたいに無為に過ごす日々がまずあって、

そういう時期には、「これがしたい」と思ったことをする場合でも、どうも自分全部がそこにイキイキと乗っているというよりは、どこかポッカリ穴が開いたまま動いている、というふうです。自分の内側が、どこか圧倒的に暗いのでした。。。

そのあと少しずつ、「もう心置きなく時間を仕事以外のことに使ってよいのだ」という事実に体がなじんできて、「これをしたかったんだ」ということが思い出されてきて、そこに自分全部のエネルギーをふり向けられるようになります。たいていは、手仕事とか、散歩。。。

今日、ようやっと、なにをしたらいいのかわからない日々から抜けました。

やってる内容はいつもと同じ、お洗濯だったり、猫のおゆうはんの買い物だったりするんだけれど、心持ちがぜんぜん違う。。。

買い物帰りに、ひさしぶりに夕焼けを見に海へ行きました。

これも、「この後の仕事の効率が上がるように気分転換するため」ではなくて、ただ、夕焼けを眺めたいな、と思ったから、行きました。

富士山のシルエットがきれいに出ていて、まんまるの太陽が、海の向こうへ沈んでいきました。

太陽は、わたしたちのとこを照らしおえて、次のとこへ行くんだな、今度はそこの人たちや生き物がお昼間の時間を過ごす番なのだな、と実感しました。

* * *

春の食べ物が食べたくなって、おゆうはんにはふきのとうのお味噌汁、菜の花の辛し和え。体が冬場の暴飲暴食デイズから回復したがっているようで、ここ数日は食べないでいるほうが調子がいいです。。食べたいなと思うものも、こういうデトックス系の旬の食べ物なのでした。

新しい姿に変身する前に、一時的に絶食する生き物は多いみたいだけれど(おたまじゃくしがカエルになるとき、さなぎが蝶になるとき、etc.)、3月とか木の芽どきとかいうのは、人にとっては新しい姿への変身前の時期なのかしらん。。(卒業・入学とかの季節でもあるし。。)

* * *

PhotoPhoto_2写真は少し前のお味噌の仕込みのときのスナップ。(あ)ちゃん撮影。

去年のお味噌の甕がまだ空かなかったので、今年は甕を新たに調達しました。ShareMoという、モノをシェアしたりゆずりあったりするサイトで、ちょうどいいサイズの新品の甕を「あげます」と言ってる方がいたので、送料だけ負担して頂戴しました。

こちらからも不用品を出してみたら、喜んでもらってくださる人がすぐ見つかって助かっています。こういう助け合い、楽しいな。

お味噌は今年は麦麹です。おいしくできるといいな。。

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2010.03.10

言葉の出どころ

昨夜。よく存じ上げてはいたけれど初めてまともにお会いする踊りの先生に、ミニレッスンを受けました。

その先生は、からだの動きと、言葉とが、常に一体化していました。

からだを動かすときはこころが動く。言葉を発するとからだも動いてしまう。。。からだを動かすのも、言葉を発するのも、同じ場所が源で、同じ質なのでした。(言葉を頭で考えてないんですね。。)。

レッスンの端々に「星々の影響はわたしたちのまわりに、ここにも、そこにも、あらゆる方向から降ってきています」とか「太陽も、1つの天体です」とか、次々と歌うようにして、生徒さんたちの想いをリードしていました。体を動かす以前のところにある、想いの部分。

レッスンのあと、個人的に質問があったので、ちょっと楽屋裏で立ち話して聞いてみたときも、お返事にびっくりしました。

先生は、質問に対する答えの中に、ほんとに自然に、ウィリアム・ブレイクの詩の一節をさしはさんで、しかもその詩の言葉とともに、やはり両手や体をかすかに動かして、体全体で、詩のことばを発していました。

 Joy and woe are woven fine,
A clothing for the soul divine.

(喜びと嘆きはきめ細やかに織り上げられて、
神々しい魂のための衣となる)

Man was made for Joy and woe;
And when this we rightly know,
Through the world we safely go.

(人は喜び、嘆くためにここにある。
これを正しく知るとき
この世の旅路は安泰となる)

こころがぐいと動かされました。質問したこと以上の答え。。

この先生は、公演のあとのレクチャーなどでも、お話の端々に詩を引用するのが以前から印象に残ってたけれど、普通の会話でもそうなんだなぁとびっくり。

わたしは、からだから出てくる動きが、言葉と断絶している自覚がずっとありました。というか、言葉にできないから踊る、というような気持ちさえありました。

でもそれは、わたしの中で言葉が磨り減っているから、そういうふうに思っていたんだな、と気づきました。普段から、出どころ不明な言葉(こころとつながってない言葉)をいっぱい発しちゃっているから。

言葉の出どころをもっとじっくり見てくこと、これからの課題なのかなぁとおもいました。

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2010.03.04

透きとおる

昨夜は鎌倉ソンベ・カフェにて、Walk9・韓国巡礼の報告会に行ってきました。

懐かしい面々の元気なお顔を見れただけで、お腹いっぱいでした。

スライドを映しながら、おひとりずつ、各地点の報告をしてくださって、お話を聞きながら韓国1周できるように工夫されていました(駆け足だったけれど。。)。鮮やかにWalkの様子が開かれていきました。

でもお話も写真も、興味深かったけれど、なによりいちばん印象に残ったのは100日一緒に歩いたメンバーのみなさんがまとっている、透明な空気感でした。デッパリや濁りがない感じで。。サラサラしているのでした。

ありがたいことでした。

(ぢ)さんが描いたという、絵がかけられていて、後半のライヴの音楽を聴きながら眺めていました。下半身が人魚の女神が数字の「9」を抱いている構図なんだけれど、見ていると、その「9」が♀と♂のデッパリ部分を取り除いた、人としてのエッセンスのように見えてきました。

まるで生き物のような「9」。

それを腕に抱く女神さまは、髪に大宇宙を宿していて。。。ポニョに出てくる大ーきいお母さんを思い出しました(見た目はぜんぜん違うけれど)。

女神さまは胸も豊かで、人魚の下半身の尾びれはきれいに2つに割れて反り返っていて、♀と♂のでっぱり部分を両方そなえている感じでした。

すごい絵だなーと思って、描いた(ぢ)ちゃんにお話をきいたら、「とりつかれたようになって、3日間、のまずくわずねずで描いた」とのこと。ひゃあ。

* * *

Photo そしてここ数日、よく思い出すのが、先日の有元利夫展で見た素描やリトグラフの人物の表情です。

いわゆる「笑顔」は1つもありませんでした。あの中間領域の人々は、口をニッとしたり、ほっぺたをむにゅっとさせて笑う、ということをしないのです。

でも内側に明るさを宿していることが、伝わってくるんです。

たぶん、まなざしが透明だからです。

あの領域の人は、もう、人間界の流儀での笑いからは離れて、もっとずっと軽やかで微細な明るさとともにいるんだなーと思いました。

とても真剣なまなざしの人もいましたが、真剣だからといって重たくならならず、透きとおっているのでした。

そしてやはり、性別不詳なのでした。男性にも女性にも見える。。。

あの存在感を、折に触れて思い出しています。

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2010.03.03

かすんでぼやけたら、はっきりしてきた

このところ。涙がたくさん出たりしていて、やっぱり冬季鬱傾向は完全にわたしを離れたわけではなかったんだなぁと気づきましたが。。

でも、興味深いな、と思うのは、おかげで社会生活&仕事のノルマは一瞬・若干めちゃくちゃになったけれど、それ以外のところとの、つながりが、回復したこと。

自分にとって、ほんとーにほんとーーーーに大切なことを、思い出したのでした。そこから意識がぶれさえしなければ、ほんとうにまっとうな人間でいられるような気がしました。

人と自分を比べてみても仕方がない、ってことはもう何度も学んでいるハズなのに、やっぱり比べてみたりしたり。

先回りや後回りしてあれこれ心配ばかりして、不安というブロックをいろんな場所に置きまくったり。

いろいろと、すぐ、せわしなくなるけれど、でもいろいろせわしなくなりながらも、こうやってここにいるんだな。

いろいろせわしなくなるなかでも、たまに、うんとほっとできて、世界とそろうひとときがあれば、もうけもんなんだなー。。

わたしがあれこれどうにかしようとしなくても、おのずとバランスを取るように変化は起きているんですね。

おのずからそうなっていく=自然

おのずからそうなっていくときは、「おのずから」なるのだから、「誰が?(わたしが?あなたが?神さまが?)」を問わなくてよくなる。主体も客体も、かすんでぼやける。

それっていいな、と思ったです。かすんでぼやけたら、はっきりしてきた。






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