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2010.03.15

言葉の出どころ・その後

Dscf0001_2 今度、引越し先の町で、はじめての動物病院へ行かなきゃならなくなって、猫キャリーを入手しました。今までの猫キャリーは本人が大嫌いだったので、シャアモで人におゆずりしちゃってたのです。

新しいキャリー、やっぱり警戒してなかなか入ってくれないので、ふたをはずして、とりあえず猫ベッド仕様にして、陽だまりに放置すること1週間。

ふと見たら、こっそり入って昼寝をしてくれていました!

よかった。。慣れてくれたら、晴れて動物病院に行けそうです。

* * *

小さい仕事を1つ終えて、今日は晴れて自由の身、なのに、ネットサーフィンをたくさんして過ごしてしまいました。

というのも、昨夜、珍しくテレビを見よう、と思い立って、なんとはなしに見たNHK・ETV特集の吉本隆明の講演内容が、心の中にハテナ模様を描きながら留まってたからです。。

吉本隆明ってすごい思想家らしい、そして吉本ばななのお父さんである、ということくらいしか知らなかったんだけれど。。でも講演しているその83歳の彼が、熱にうかされたように語っていた(やせた体を車椅子にあずけ、痰をからませてなんども咳き込みながらも、言葉がとぎれる間もなくしゃべり続けた)、言語の2つの側面=「自己表出」と「指示表出」というコンセプトが、なんだか気になったのでした。

考える、思想する、というよりかは、印象によって物事を把握しがちなわたしにとって(汗)、あの吉本さんのしゃべり方は、やっぱり昔見たテレビで、版画家の棟方志功さんが、河井寛次郎さんのつくった茶碗をひたすらに愛でていたときのことを思い出させるもので。。。

圧倒的な「なりふりかまわず」感があって、「気がふれてしまってるんじゃないかな、このひと」と思わせそうなほどの、誠実さがあるように感じられました。

吉本さんは、言語は、他人と コミュニケーションを取るためだけにあるんでなくて、沈黙の中で、自分の中に生まれてくる想い(口にするかしないかは関係なく)のためにも、ある、と言ってたようでした。

他人とのコミュニケーションのための言葉を「指示表出」、他人とのコミュニケーションを目指さない、ただ自分の中から出てきただけの思いを「自己表出」と呼んでいるようでした。

そして「指示表出」は植物で言えば枝葉でしかなく、「自己表出」こそが幹である、と言っていました。

* * *

ネットサーフィンして、少しわかったのは、さらに吉本さんは、その「自己表出」というのは、内臓から来ている、と言っていたこと。

こちらのブログにありました。(以下引用させていただきますと)

「指示表出」の典型は名詞で、「木」といえば、「木」をイメージする。そこには、指示性があります。イメージするというのは、脳があるからです。脳の機能によって、イメージしているわけです。つまり、「指示性」は、明らかに脳が司る感覚的な認識によるものだということです。
一方、「自己表出」というのは心の表現です。「あっ!」といった感嘆詞などが、その典型です。そこには、別に指示性はありません。「自己表出」は、"自動表出"といっていいくらい、内臓からくる「臓器感覚」なんです。<中略>それは、「指示表出」のように、脳の機能によってイメージされるものとは違うんですよ。

(吉本隆明『超「20世紀論」下』アスキー より)

数日前、「言葉の出どころ」について考えていたとき、漠然と、

頭=受信機
こころ=発信機

として使うのがよいのかなぁと思いめぐらしていました。自分は、本来は受信機のはずの頭を発信機にしているから、出どころ不明の妙な言葉を発してしまうのかな、と。

受信しているだけだったのに、自分がそれを発しているんだと勘違いしたり。

そうやって頭ばかりで忙しくして、こころがおのずと”表出”するものとともにいることを忘れてたかも。。

でも、そこが幹だったんだ、さらには、目に見えない地中の根の部分も、その下にあるんだった。。と思ってみると、

もう少しまっとうな人間でいられるような気がしてくるです。。

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