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2010.10.17

東洋でも西洋でもなく、南洋

Photo 数日前、朝ごはんを食べながらふいっと読み返したくなった、内野加奈子さん著『ホクレア』。

読み始めてすぐ、涙がどばどば。なんでこんなに泣けるんだ、というほど涙が出たのだけれど、1回目に読んだときは涙した覚えがなかったので、不思議でした。

その日の夕方、ふいっと思い出しました。1回目に読んだときは、マウさんがまだ生きていたんだ。でもマウさんはこの夏に亡くなられた。。。

サタワル島のマウさんは、星や風や鳥や波の表情だけで大洋を航海する術を知っていた、南洋で最後の1人だった人だそうです(追記:これは誤解でした、ホクレア号のクルーがマウさんと出会った時点では、気づかなかったけれえど、実は6人の伝統航海術師がその当時はまだいたそうです)。

ハワイの航海カヌー、ホクレア号のナビゲーターたちは、マウさんに伝統航海術を学んだのでした。

先日、そうしてマウさんに学んできたクルーの方たちのお話を聞きにいって、その方たちがマウさんから学んだのは、航海の技術だけじゃなく、もっと根本にある、おおいなる生き方の態度や世界観だったんだと知りました。

航海術が単なる技術じゃないことは、クルーの方たちの存在感の質からも、あきらかでした。

なんの気負いもなく、正直に、よく笑い、よく泣き、よく歌う人たちでした。。。

責任ということばの意味を、体の底で知っているようでした。

We ARE what we were taught. (僕たちは教わったことそのもの)
We just mimic our teacher (師と同じようにしてるだけ)

と言い、でも「ちゃんと学ぶ」ということがどれだけ大事かを語っていました。
学びのプロセスこそが大事で、ちゃんとした「学びの場」でそのプロセスを通過していなければ、形や言葉だけなぞってもなんの意味もない、と言っていました。

ほんのちらりと、語ってくださっただけだったんだけれど、たとえば「縄の縛り方」の教えは、具体的・この世的に、カヌーのパーツを結び合わせるときの縛り方を教えるものであると同時に、非具体的なエーテル(?)レベルで起きることのメタファーでもある、ということのようでした。

(これはわたしの想像だけれど)天空の星々の位置がすべて頭に入って「地図」になると、それは、物質界での航海時の具体的な「コンパス」になると同時に、別の宇宙感へのアクセスにもなる、みたいな、そういう二重、三重の体験や意味や教えがそこにあるようでした。。

そうやって学び、ちゃんと受け継いだなら、受け継いだことに100%責任を持つことになるようでした。

責任とは、学んだことを、自分以外の人に奉仕するために使うということを意味するそうです。

そういうつらなりの、意識の網の目の1つになること。そこには、上も下も右も左も内も外もない、というかそれらが全部ある、というか。。。そして全体のほうが個より大事なのでも、個のほうが全体より大事なのでもなく、両方がほんとにおんなじだという。。。。

そんなようなこと。今感じて/想像していること。。。なんだけど、まったくうまく言葉で書けません。。。絵には描けた(ような気がする)んだけれど。。。。。(汗)

思春期を西洋文化圏で過ごさざるを得なかったせいか、かつては東洋と西洋で「自分を住み分け」していて、その2つのあいだの寒風ふきすさぶ「はざま」で、「どちらの自分も、欠けがある」という感覚を引きずってきたけれど。。。

南洋には、それがみんな「取り越し苦労」になるようなあり方が、そっくりそのままあるような気がしています。どうなんだろう。。。

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