そこにある
毎晩、寝る前に、にゃみちゃんにお線香がわりにセージの葉っぱを焚くのですが、昨夜、いつものようにセージをあげたときに、急に悲しみとさみしさとがわーっとやってきて、しばらくオイオイ泣きました。
悲しいときには、だまってそばにいてくれたり、全身でわたしの手をにぎってくれたにゃみちゃんのことを思い出してました。
ほかの猫とも、ほかの生き物とも、折に触れ出会っているけれど、にゃみちゃんとのあいだにあったような関係性はそこにはないのでした。
亡くなって2ヶ月と半分くらい経って、にゃみちゃんの不在にもずいぶん慣れてきたけど、それでもときどきこうやって耐え難い感じになる。そういう自分が「だめだめ人間」に感じられる。。で、そういうときはもうひたすら眠るのみ。
泣いたまんま寝て、今朝起きたら、両のまぶたがお岩さん状態。。あららヒドイ顔、と思いつつ、キッチンの床を掃きそうじしていたら、にゃみちゃんのひげが、落ちていました。
曲げるとぴよんと元にもどる、弾力がいとおしい。数ヶ月ぶりの、この感覚。
キッチンの床はにゃみちゃん亡き後、大掃除のときの水ぶきを含め、いつも掃除している場所。なのにそこにまた、にゃみちゃんのひげが落ちてるなんて。
さみしいと泣いてたわたしを見かねて、プレゼントしてくれたに違いないと思う。ほんとにやさしい。。ありがたいです。
* * *
これからどうしたらいいかわからない感は、やっぱり、いまだにあるのだけれども。
お賀状をくださった方々に寒中おみまい葉書を書いていて、ぼんやりながら夢想的希望が出てきはじめました。
(毎年なぜか、年始のごあいさつの「一言書き」をしていると、何枚か書くうちにだんだん、自分がその年に希望する感じがちょっとはっきりしてくる)。
ここしばらく「ヒト-異種」間の交流に関わることがしたいと夢想していたけれど、昨年やらせていただいて楽しかった絵本の翻訳を通じて、「大人-子ども」の交流に関わることもできたら楽しそうだなぁ、と思い始めました。
わたしの中では、「ヒト-異種」間と「大人-子ども」間は、かなり同じカテゴリーみたいです。
「親業をしたことがない自分」が子どもの絵本を訳して、本当にいいんだろうか、という思いが、訳している最中もずっと、あって、どうも身をひっこめたくなるのだけれど、
でも2日ほど前知った事実に、ちょっと励まされています。児童文学の作家・翻訳家だった石井桃子さんが、101歳まで生涯独身だったこと。そして、「くまのプーさん」の翻訳を彼女が一生懸命にやったのは、もとは、死を目前にしていた同年代の女友達のためだったこと。
ムーミンシリーズの著者、トーベ・ヤンソンも、一応86歳まで「生涯独身」だったことになっていますね(トーベには異性ではない大切なパートナーがいたんでしたが。。)
「こうでなくちゃこれをする資格はない」というようなものは、実は、あんまりないのかもしれないのだと、思う練習をしようと思います。。
自分の中から出てくる希望や要望は、表現されたがっている命のエネルギーなだけだから、たぶんそこは、わたしが無理にねじ伏せたりもみ消したりすることでもないのだろうし。。
今日も、夕焼けを見にいって、空にうかぶ雲を見ていたら、なにもかもがクリアにそこにある様子が迫ってきて、一瞬、自分を取り戻せました。そこにある、という、ただそれだけのものが、力をくれる。。それって、そこにある、ということが、ほんとうは「ただそれだけ」以上のことだから、なのかもですね。
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