« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »

2012.04.30

Img_2316このところ、道ばたの草たちが元気なのが、とにかくうれしくて仕方ありません。特にお気に入りは、江ノ電の線路ばたの草や花たち。

人の手で植えられ、お世話されている植物たちも、もちろんとてもきれいだけれど、のらねこのように自らのリズムで生きている野の草草が、最近はいっとう好きです。

ほとんど世話らしい世話をしていない、我が家の玄関まわりも、毎年、この季節になると、草草のなかに「これは去年見なかったよ?」という小花をつける草がいます。去年と同じのに会えると思っていても、会えなかったり。

Img_2331 急にすずらんが出てきて咲いたりしてるのも、うれしい。

冬のあいだ葉っぱを落としていた木々が、黙々と続々と緑の葉っぱを出し始めるのを見るにつけ、どんなことがあっても季節はめぐるのだなぁ、たくましいなぁと思う。

しぜん、もともとは、じねんといった、そのもののこと。。。人間vs自然というような図式の意識で切り分ける前の、あらゆる「おのずからなる」現象たちのこと。。。を思うともなく思っています。

近しい人から誤解されたり、理解されたなかったりしても、もうかまわないや、と思うこの頃。自分としては、珍しい展開です。誤解が先方にとって害になってないようなら、の話だけれど。

でもこうして思ったことを体の外へ出したい衝動は、まだ止まないな。いつものことながら、矛盾があります。

| | コメント (0)

2012.04.23

はるか昔へ、SOS

Img_2240草が元気にあおあおとしてきて、うれしいこの頃。自分にとっては、なかなかに難しい日々が続いていますが。。

うれしいことが、ありました!

数日前、ながながとやっていた仕事がやっと終わって、お祝だ♪と、うきうきしながら市民図書室へ行きました。そして、今日はなんでも好きな本を読んでいいのだな~と思って棚を見まわし、なにげなく目にとまった『大人の友情』(河合隼雄さん著)という本を借りました。

Img_2251 図書室を出ると、桜の花びらが風に舞っていて、手のひらをひらいたら、乗りました。毎年、風に舞う花びらをキャッチできたら、その1年は幸せ、とゲームのようにやってきたのだけれど、今年はほんとうにあっさりと、手のひらに乗ったのでした。

その夜、友達がブレンドしてくれた薬膳茶を「お祝茶」として飲みつつ、借りてきた本をさっそく読みました。エッセイなので、か るーく読める本でした。本の終わりのほうに、「人間以外のものとの友情」について取り上げた章があり、その中で、鎌倉時代に「島にラブレターを書いた」という僧侶のことが書かれていました。

あらゆる生き物や自然を愛する宗教者と言えば、最初に思い浮かぶのがアッシジの聖フランチェスコですが、この明恵上人という僧侶も、聖フランチェスコみたいだなー、と気になりました。しかも明恵上人は、夢日記をつけていた、とも書いてあり。。。

数日後、近所の図書館(市民図書室よりも収蔵書が多い)へ行き、明恵上人の本を探すと、同じく河合隼雄さんが、明恵上人にフォーカスして書いた本がありました。『明恵 夢を生きる』という本です。読み出したら、夢中になりました。

明恵上人にはいろんなエピソードが残ってますが、蜂が水に落ちて困っていたり、雀の子が蛇に食べられそうになったりしているところを、遠隔で察知して、助けを出したりしたそうです。

Photo_4 お弟子さんの筆による、明恵上人が木の上で座禅している絵が残っていますが、まるで自 然の一部のように描かれていて(人物以外の風景が画面に占める面積が多い)、明恵上人の足元ではリスが興味深そうに見上げていて、背後には小鳥が飛んでいます。

肖像画としても、肖像がこんなふうに背景に溶け込んでいるのは珍しいと思いますが、座禅像としても、小動物が一緒に描かれているのは異例だそうです。

ますます、聖フランチェスコみたいだ、と思っていたところに、明恵上人が晩年に本拠地としたお寺(栂尾山の高山寺)が、1900年代になってから、アッシジの聖フランシスコ教会と「ブラザーチャーチの約束」を結んでいたことを今しがた知って、またびっくり。

仏教とキリスト教とが、こうやって手をつないでいただなんて。世界で初めて、異宗教間で兄弟関係となっていたんだなんて。。!

実は自分は、祖父が仏教の僧侶で、でも幼稚園はフランシスコ会(聖フランチェスコの教えに基づく会)に属する幼稚園に行き、自分の宗教観はこのせいで早くから混乱させられてしまったのだと思っていたけれど、混乱から「つながり」へ行く道が、あるのかも、という気がしてきました。

* * *

人間が動植物よりも上、みたいなふうに言うところや、本当の神様は1人だけというところが苦手で、キリスト教は今もやや苦手です。

仏教も、やや抵抗があります。万物に神を見る神道のほうがしっくりきますが、その神道を壊してしまったのが仏教だと感じているからです。(でも神道もいろいろに利用されてきた歴史があって、軍人を神様にしたりするところはどうしても好きになれません。。)。

でも聖フランチェスコと明恵上人には、ものすごく惹かれます。

Photo_3 聖フランチェスコは、その風貌(腰紐に3つの結び目をつける、茶色のローブを身に纏うなど)がまさに古典タロットの「隠者」そのものですが、明恵上人もやはり、隠者を志向しつづけた人のようでした。一時期はじっさいに俗世を離れて隠遁しつつ修業したそうです。ただそれを続けたい想いとはうらはらに、人の世に戻らなければならないというプロセスが彼の人生に大きく働いてきて、それを観念して受け入れるんですが。。

聖フランチェスコがキリスト自身を慕ってやまなかったように、明恵上人もブッダ自身を慕ってやまなかった。。。それに2人とも、うたをつくるのが好きでした。しかも2人は同時代に生きていました。明恵上人は1173年~1232年。聖フランチェスコは1182~1226年。

興味深いです。

* * *

でもって、実は、この2人よりもさらに昔の人、老子が気になっています。。。
なかなか老子には簡単に近づけなくて、遠回りしていますが。。。

老子は。。。仏教に先んじて足るを知ることと殺生しないことよしとし、キリストに先んじて弱い者を尊び、ガンジーに先んじて非戦をよしとし、シューマッハーに先んじて小さきをよしとしてたことを、今さら知って、びっくりしています。

まだ端っこをかじっただけですが、老子の自然観、女性観も、おお、と思うことが多いです。

今をどう生きたらいいのか、途方にくれるばかりの自分は、はるか昔の人に助けを求め中のようです。。

| | コメント (0)

2012.04.07

楠の木

Img_2108 3月が終わるまでずっと、うすぼんやりとした意識のまま、まともなことがほとんどなにもできないまま、過ごしていました。

普通の生活に戻らなくちゃと、もがいてはいたのだけれども、仕事はほとんど手につかず、家事もほとんど手につかず、人と会いたくなく。

3月11日は、でも、近所のお寺が出発点の、地元のピースウォークに参加しました。午後2時46分の前から、大勢のお坊さんが、ずうっとお経を唱え続けていました。一緒にお祈りをさせていただいて、そのあとで、大勢のみなさんと一緒に、鈴を鳴らしながらピースウォークを歩きました。

子どもさんたちも一緒に元気に歩いていて、明るく言葉をコールしながら歩くよう促されもしたのだけれど、自分はほぼずっと声も出ず、意識は大変に内向きになったまま、歩きました。目玉の裏側が、涙でいっぱいになっているような、妙な感覚があり、涙は目玉の裏側に溜まることができるのか、と初めて知りました。

それから3月が12日、13日、と続いていく中で、いちねんまえの記憶が、バックグラウンド再生を続け。。。海の底にうずくまっているような日々が続きました。

* * *

4月に入って、ようやく、水面にまで浮上して、浜へ、上陸できました。

そういう星周りだったのかもしれない(水星も逆行していたし)とも思うし、でも、浮上のきっかけも、思い当たったりしています。

まだ風が寒いけどよく晴れていた4月1日、あてもなく自転車に乗って、外へ出ました。なんとなく、近所の神社に足が向きました。ふだん神社めぐりなどはしないほうなのだけれど。。

そこの神社は、今年に入ってから初めて行ってみた神社。場の気配がひろやかで、すがしくて、湧水も出ていて、すごく気に入ったのでした。特に、奥のお宮にお参りして頭を下げると、頭がスッとした空気のかたまりに浸される感じで、気持ちよかったのでした。

Img_2075 あそこの神社、気持ちよかったんだよなと思って、ふたたび立ち寄ってみると、本殿にお参りしようとしたときからもうすでに、左の向こうにある奥のお宮を囲むように立っている楠の幹が、日の光に美しい縞模様を見せていて、惹きつけられました。

本殿にお参りをして、奥の、小さい小さいお宮のほうへ行くと、楠の木々が立っているあたりはやっぱり、空気がスッとしていました。

海の中で、突然に違う温度の水の流れに出会ったときみたいに、はっきりとした違いがあります。

楠の幹に、手を当ててじっとしていると、ぼわんぼわんと手のひらに響いてくるものがあって、ものすごく暖かい。なんて暖かい。。 

涙が出てきて、そのままぼおっとしていたら、背後に7歳くらいの男の子がひとりでお参りにやってきていました。

気づいて、道をゆずったら、男の子は柏手を打って、正式なやり方でお参りをして、また小走りに去っていきました。

わたしもお参りをして、また楠に少しくっついて、それから帰りました。

おかしなことだけれど、楠と一緒にいると、最近ずっと感じることのできなかった、感謝の気持ちが体の奥深くから、次々に湧いてきました。

Img_2084 境内を出て、自転車置き場に戻ると、その隅に黄色いミモザが咲き始めていました。

ミモザ、すごく好きな花。

ミモザのそばにあいさつに行き、思い出していました。

何年も前、ある1本の楠の木と、出会ったとき、橋渡しをしてくれたのが、満開に咲き乱れたミモザの木だったこと。。。

その楠の木とは、それからずっといろいろな相談ごとにも乗ってもらい、なぐさめもらったり元気づけてもらったりしたのだけど、あるとき切られて、そのあとは、その土地に新しくテラスハウスが建って、地面はコンクリートの下になり、その木が建っていた場所は、駐車場になったのでした。

あれから、切られた木はどこへ行くんだろう、と何度も考えた。

その後、都心の職場で働いていたときは、そのそばにあった公園の楠たちや、前に住んでいた町では、家の近くの大学構内の楠たちと、なにかが通じるような瞬間が数回あって、そのたびに、あの切られた楠の木を想いました。

そして、夢の中でだったか、プロセスワークのワークをしている中でだったかで、「楠ネットワーク」のことを知らされました。

地球上の楠はみんな、楠ネットワークでつながっていて、みんなで協力し合っている、と。

少し前に読んだ小説に出てきたサボテンが、「サボテンネットワーク」みたいなものの中にいるという記述があって、この小説家はどうも好きになれない、けどこの部分は、私が知らされたこととおんなじだ、と思ったことも、思い出しました。

今の家の、寝室の窓からは、隣の家の楠の木が見えます(というか、その楠しか見えない)。朝目覚めてカーテンを開けると、いちばんに目に入るのは、空とこの木。去年、放射性物質をはらんだ風が吹いたとき、どこにも逃げられないこの木に、申し訳ない、と心底思ったことも、思い出しました。

でも、神社の楠に触れて、だいじょうぶなんだなぁと感じた。。

絶望感だけがどこまでも広がっているような日々に、気力を取り戻すきっかけを、逆にもらってしまいました。

感謝しています。

| | コメント (0)

« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »