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2012.09.02

涼しい日のつれづれ

まだまだ暑さが続いていて、体がしんどいですが、今日はほんとうに久しぶりに雨が降って、涼しくなって、ほっとしています。涼しい窓辺に寝ころんで本を読んで、そのまま眠ったりして、至福の日曜日でした。

真夏の暑さのときは、とにかくただ存在する、ただ行動する、というふうだったけれど、涼しくなると、ぐんと落ち着いて「考える」とか「振り返る」とかができるようになりますね。勢いよく拡散するような獅子座のエネルギーから、まとまっていくような乙女座のようなエネルギーへの移行って、こういう感じなのかな、と思ったりしています。

夏の日Img_2918_2差しを浴びてできあがった今年の梅干し。今、夜のお茶タイムに、ほうじ茶といっしょに口に入れると、ちょっと落ち着きます。この感じも、獅子座から乙女座?

* * *

少し前から、また、異種間コミュニケーションのワークを、もっと積極的にやっていきたい気持ちが頭をもたげていて(これ、周期的に来る)、でもまたい つものように、出る杭が打たれる感じで、「わたしには、できない」と書いたトンカチに、頭を打たれたようになっていました。

知人の知人の、「アニマル・コミュニケーター」のお仕事をされている方のブログを目にしてしまって、なおさら、自分には無理と思ったのでした。

というのも、その方のブログからわかるのは、動植物自然界とコミュニケートするのは、「その能力、そのお役目を授かった人がすること」という前提があること。子どもの頃からそういう子でした、というようなお話もあったりして、ふつうの子どもだった自分には、そんな能力やお役目があるはずもない、と思いました。

ただ、わたしが異種間コミュニケーションを学んだ先生は、口をすっぱくしてなんどもなんども、「コミュニケートする力は、万人にある」と言っていて、「そうなのだという確信を持つことで疑念に打ち勝つのを自分は手伝っているだけ」という人でした。

(でも、その先生にして、わたしは「固い殻(=疑念の殻)に閉じこまってるね、割るのが大変だわ」と言われてしまったんだけれど)。

先生のところの合宿で集中的に教わってから、あとは自分で練習を重ねていきなさいと言われて送りだされたのに、ぱったり練習できなくなって久しい…。

当たり前のように、「そうなのだ、これはそもそも、もともとの、昔ながらのコミュニケートの仕方なのだ」と思い出せればなぁ、と願う…。

* * *

数日前、自然農で田畑を始めたともだちが家に遊びに来てくれて、おしゃべりしていて、その人が「肥料を入れなくて、なんで育つんだろうって、やっぱりいまだに不思議なんですよね」と言ったとき、自分の中には「それは、意外だな」というリアクションが出てきました。

それでわかったんだけれど、自分の中で、自然農については、「肥料をあげなくても、植物は育つ」のは、もう「当たり前」のこととして納得がいってること。だから それを「不思議」とは思っていないこと。人間の裁量で肥料を入れないで、自然の大きな裁量にまかせるほうが、全体としていいと得心しているのでした。

それでいくと、動植物自然界とコミュニケートすることについては、「生きものとして、それができるのは当たり前」というふうに納得するまでにはまだ至っていないのだな…。だから、自分にそれができたときは「不思議」だと思ってしまうし、当然のように「できます」という人に出会うと「すごいなー」と思ってしまう…。

野口整体の創始者、野口晴哉さんが、10代の頃、手を当てて(愉気して)人の病をどんどん治してしまったとき、まわりは驚いて、それで口コミでどんどん病 人が押し寄せてきたらしかったけれど、息子さんのひろすけ先生は、「野口晴哉がすごかったのは、この能力が『自分だけにある』と思いこまなかったところですね」といつもおっしゃる。「手をかざして人をいやすことは、歴史を通じて、徳を得たえらい人だけにできること、とされてきていた。それを、万人に返そう としたんですね。誰でもできる、と。それがよかったんだと今も思っています」と。

わたしは愉気については、「誰でもできる」と、頭では疑っていないのに、いざ実践する段になると、不思議だな、とか、自分にもほんとにできてるのかな、とか思うときもあったりする…。だからまだ中途半端な確信具合…。

異種間コミュニケーションは、まだ頭のレベルでさえも疑念があって、だからできたとき(コミュニケートできたことを実証出来るようなやり方で練習した時に成果が あっても)も、「偶然だよね」などと考えてしまいます。「偶然」と片づけるには具体性がありすぎるような場合であっても、「なかったこと」にしがち。

異種間コミュニケーションは、誰にでもできることとして教えたり実践したりしている人の数が、自然農や愉気に比べて、まだ身の回りに少ないっていうことも、関係しているのかな?

ただ、意外にも、最近関心を惹かれている世界各地の先住民の文化から、疑念をほどくきっかけをいくつもいただいています。科学的な方法(実験を通 して実証していくやり方の練習)で成果が出ても、やっぱり割りきれないわたしの「殻」が、遠回りだけれど、先住民の人たちの世界観と触れることで、開き始めてるような……。

それよりなにより、先住民のみなさんの、円い世界観に触れるたびに、いいようのないうれしさに包まれます。

Img_3045 昨日も、ブラジルのインディオ、アユトン・クレナックさんとの旅の記録を書いた長倉洋海さんの本『鳥のように、川のように』を読んでいて、なんども、なんども、うれしかった。

この本の扉にあった、アユトンさんの言葉です↓

「私たちは子供たちにこう教えるのです。『地上にやってくる時には物音をたてずに鳥のように静かに降りたち、やがて何の跡も残さずに空に旅立っていくのだ』と。『人は何かを成すために存在する』という西側の哲学は銅像を作り、人の偉業を記録に残そうとしてきた。だけど、”人は何もしないために存在してもいいじゃないか”と思うのです。生命を受け、生きていること自体が素晴らしいことなのですから」

本の中に載っていた、アマゾンの熱帯雨林の中にぽつんと見えるドーナツ型のヤノマミ族の家の写真も、心に残りました。20家族、100人あまりが暮らすこの家の中には、壁はなく、真ん中の大きな広場は「人間の根っこ」と呼ばれていて、村人たちのへその緒が埋めてあるそうです。自分たちがどこから来たのか、忘れないため、とのこと…。

西側諸国の、壁に囲まれた四角い家とは、あらゆる意味で対照的…。

* * *

自然農を始めたともだちとおしゃべりしてる中で、もうひとつ、畑や田んぼをみんなでワイワイやるのことへの苦手意識についても、ヒントがありました。

わたしが農的なことに関わりたいいちばんの理由は、なくしたつながりをとりもどしたいからなんだ、ということ……虫や植物や動物や風や雨やそういうみんながめぐっている場に身をおいて、そこの一員にさせてもらいたい気持ちがあるからだということが、改めてわかりました。

自然のめぐりの場では、じっと静かにしていて初めてみんながそばに来て姿を見せてくれます。こちらが心身ともに、わさわさにぎやかにしていると、出会えない…。出会えなければ、仲間に入れてもらうことも叶いません。(人間社会だと、にぎにぎと華やかにしているほうが、みんな興味を持ってそばに来てくれる印象があるので、対照的ですね…。)

人間同士で楽しくワイワイというのも、好きだし、すてきなことだと思うけれど、農的なことに関わる場面では、そっちに引っ張られちゃうと、自分の今の望みからは離されてしまうんだな、ということがクリアーになりました。

社交的になれない自分にうしろめたさを感じていたけれど、そう感じなくてもいいんだな、と思った…。

* * *

Perloyster 異種間コミュニケーションについては、「ほんとにわたしにできるの?」と、なかば叫ぶように問いかけて、ひさしぶりに動物たちのオラクルカードを引いたら、真珠貝のカードが逆位置で出ました。

このカードの逆位置の場合のメッセージは「出し惜しみしないで。真珠の美しさは、殻が開いてこそ。さあ殻を開いて」というもの。

できるよ、とか、できないよ、という答え方でなくて、「それはすでにあなたの中にあるよ、殻を開いて」という答え方をされたことが、うれしかった。

こういう答えなら、「それはすでにみんなの中にあるよ」と言われているのとも同じ…。

切り離されているところから、輪の中に戻ること。そうしたら、大いなる安心も戻ってくるんだということが、頭では、すでによくわかっています。あとは心でわかることだなぁ…。

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