体のことば
野バラが一番花をつけ、ツツジも花がどんどん開いてきた。昨日はひさびさの休みで、洗濯をして片づけものをしてから、浜へ行って、波音をずっとききながら、桜の枝のミニフォーク削り。
ナイフ1本もって出かける楽しさ。。。 だいぶ、休まりました。
このところ、なにかと反省がとまらなくなってた。いろんなことについて、自分のしたこと、言ったことなどについて。でもそれも、なんというのかな、刺激をたくさんいただいたってことなんだな、とわかった。
刺激的なことがあって、そこで自分が反応をして、そのときはめいっぱいになって行動していて。それを後になってふりかえって反省するとき、今度はその場にいた相手の人やほかの人、ものなどにとって、自分の行動はどうだったのか、を検証しているんだな。
そして、あちゃー、となる。でもそれは次回には、そんなふうに迷惑をかけないようにしたい、という、「まわりへの思いやり」からの反省衝動なんだな、と気づいた。
そう気づいたら、その瞬間に、なんだかしらないけど、体がどんどん勝手にゆるんでいって、びっくりした。おもしろかった。。。
もう済んだことは取り返しがつかないことなのに、反省がとまらなくてぐるぐるしている自分のその反応に、さらに反応する自分がいたんだな。そんなことしたって意味ないのに、とか、反省なんてしたってしょうがないし、そんなことするのはエネルギー無駄づかいだよ、自分いじめはしないほうがいいのに、自虐的だよね、とか、いろいろ言う自分。いろいろ言っても、反省がどうしてもやめられなかった自分。
それが、「思いやり」からの衝動だったんだな、と思ったとたん、ぱあーっとゆるんでいった。体は、正直だな。体のことばは、わかりやすいな。。。あのときの瞬間って、たぶん、その「反省衝動」をもっていた「わたし」の部分が、それまでは否定され続けてきたのが、はじめてわたし自身に「受け入れてもらえた、わかってもらえた」と、ほっと安堵した瞬間だったんじゃないか。
わたしは「愛」とかってなんだかよくわからない、とずっと思ってきたけど、このことが起きた日は、わりとくっきりと、「わたしは今日は、わたしを愛したよ」と思った。
「愛」がもし、好ましくて素晴らしくて惹かれているものを、大好きでいる、大切にするっていうことよりももっと、理解しがたい、いやだなと思ってきたなにかを、まるまま、こころの中のほっこりした場所に、すっと受け止められるようになること、なんだとしたら、なんとなく腑に落ちる気がする。
写真は、こないだ贈りものにつくった、ミニスプーン。ミニフォークの相棒として、桜の枝に、クッキー形をあてて同時につくりはじめたもの。フォークは間に合わなくて、スプーンだけ、旅立っていきました。
キーホルダー的に使ってもらおうと思ったけど、キャンプでの携帯用カトラリーとしても、使えないこともないかもな、もしかして。
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