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2015.07.30

急にラジオが。。。

20150721_151650 毎日あづいです。。。

バテたわけではないのだけど、どうもこのところ、心から楽しいとかうれしいとかウキウキするとかいうことがなくて、まるですべてと自分とのあいだに厚さ50センチくらいの壁が、透明なんだけど歴然とそこにある感じで、これはどういうことなんだろうな、と思っています。

以前すごく楽しくて仕方なかったことについて、考えたり、実際にそれをしたりしても、あまり晴れやかな気持ちにならないのでした。

なにかじいっと耐えているようなふうのまんま、目の前の仕事をひたすらこなしていく日々。。。そんななか、ひょんなことから、携帯ラジオについて調べていくうちに、短波放送というものの存在を知り、聞いてみたくなりました。

とおーくの国、ルワンダとかエチオピアとか、のラジオが短波だと日本にいながらにして聞けるんだそうです。もちろんアジアの国やヨーロッパの国のも。それと、灯台放送というのが聞けるらしい。これは日本列島の岬に立ち並ぶ灯台がリレーして放送している、その灯台所在地のお天気情報だそうです。

各地の灯台をリレー放送!内容が気象情報のみ! それだけで、なんだかぐぐぐっと惹かれてしまうのは、自分の内なるムーミンパパがさわぐからだろうか。。。ほかのすべてが厚さ50センチの壁向こうになっているなか、この灯台放送のことを考えてるときだけは、ふしぎと気分がちょっと上がるのでした。

仕事の合間に、短波・AM・FMの聞ける携帯ラジオのリサーチをつづけ、10日以上迷ったあげく、ついにラジオを注文しました。

Degen 最初にほしいと思ったのは、十和田オーディオという秋田にある会社がつくっているSONYの携帯ラジオで、ICF-SW22(JE)というトラベラー向けモデルでしたが、もう販売が終了していて。悩みに悩んで最終的にDEGENという中国のオーディオメーカーがつくっているDE29という白いラジオにしました。

決め手は(わたしの予算の範囲=5000円くらいまでという以外に)、小さいボディながら音がとてもよい、という評判と、灯台放送の聞ける周波数をカバーしていることと、手のひらサイズで軽量(電池込みで145g)なことと、音源がモノラルでなくステレオなこと、デザインが軽やかだったこと。あと、短波初心者の自分には、いきなりアナログチューニングでいくよりも、聞きたい周波数の数字を入力するとピンポイントにそこに合わせてくれるラジオで慣れるのがよいかも、と思ったこと(アナログ機器のほうが壊れにくく直しやすいと思うし、ほんとは好きなのですが)。

ただこのラジオを使ったことのある人のレビューが少ししかなくて、おおむね悪くない評判だったのだけど、わたしに合っているかどうかは未知数です。

* * *

20150723_170612 リサーチしているとき、「いちばんいいのはどのラジオかな」というふうに考えてリサーチしている自分がいたけれど、だんだんはっきりしてきたのは、「いちばん自分に合っているのはどれか」なんだなってこと。

小ささと軽さが大前提だったのだけど、そのうえで、自分は音そのものから喜びを得るタイプなので、やっぱり音質が最優先事項になりました。受信感度も大事だけど、音質のほうが受信感度よりも上になってしまった(灯台放送ばかりをずっと聴きたいわけでもないので、FMで音楽も聞けたらいいなと思って)。これは、おそらくコアな短波リスナーの方ならありえない優先順位だろうと思う。

でもこの「いちばん自分に合っているのは?」という選択基準は、ポイントだな、と思った。ここをクリアーに自覚しておけば、自分にとって(もしかすると自分だけにとって)「いちばんいい」ものを、他人にやみくもに勧めたり押しつけたりしないで済むなあ、と思って。宗教しかり、思想しかり、さまざまな方法論しかり。

各自がそれぞれにいちばん合っているものを選びとって共存できるような、最低限の自由と思いやりさえ共通基盤として確保できれば、お互いの「いちばん」を認め合ってやってくことはできるんじゃないかな?と思ったり。。。

それぞれが自分にとってのいちばんを、(たとえそれがほかの人のいちばんとだいぶん違っても)「これがいまの自分にとってはいちばんです」とふつうに言えるようであったならなあ。お互いに異なるいちばんについて聞きあって、おもしろがって、情報交換をしてインスパイアしあえるようであったらなあ。

他者にとっての「いちばん」が信じられない!とかわからない!と感じるくらい自分のと違うとき、思い切りそう感じきって、そうすることで自分の「いちばん」をくっきりはっきりさせて、相手の「いちばん」があるおかげでよくわかった自分の「いちばん」を大切にするほうへとエネルギーを向けていけたらなあ。。そして自分の「いちばん」を大切にしつつも、インスピレーションには常に開いておいて、自分にとっての「いちばん」の移り変わりを季節のように体験していけるようであったらなあ。。。

20150721_151350それにしても、「今の自分にいちばん合っているもの」=「完璧」なわけではないですね。。。さまざまな「大好きなとこ」と「そうでもないとこ」が同時にそこにある、そのまるまんまで「合っているようだ」、ご縁があったようだという、ほんやりした「いちばん」なわけで。

わたしの注文したラジオは「明日発送します」との連絡をもらったので、今頃はもう箱に入れられて、うちの方向へと旅を始めているはず。香港から、空を飛んでやってくるこのラジオが果たしてほんとうに良いご縁なのかどうかは、じっさいに出会ってみないとわからないけど、とりあえず、到着がたのしみです。。○

PS このラジオを待っているあいだに、少し前からオークションでチェックしていた、十和田オーディオ製のSONYのICF-SW23(ICF-SW22の後継モデル)の新品を、ほぼ手違いで(汗)落札できてしまった。。。ほかに7人くらい入札している方がいたので、きっとだめだと思って、軽い気持ちで1回だけ入札してみたら、そのまま落札へと。。。わわわ、と焦ったけど、これも何かのご縁なのかなどうなのかな。。。 

Icfsw23 音質はだぶんDE29のほうがよいみたいなのだけど、カセットケース大のカッチリしたデザインのワールドバンドレシーバーで、相当かわいいので、やっぱり楽しみです。乾電池で使えるので、キャンプ用とか緊急時用にはこちらのほうが心強いかもしれないな。。。

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2015.07.20

ことばを発してみる

20150715_082902 庭に咲いたヒメヒマワリ、長く咲くかわいいお花で、仕事の伴走をしてくれています。ありがとう。

去年、茎を一枝折ったのを挿したランタナも二度目の開花。かわいいぼんぼり型で、このお花、大好きです。20150714_150726

このところやや鬱傾向の感じがずうっとあって、調子がよくないです。いろんなことから影響を受けてヘタレやすいこの頃。人とどう接したらいいのか、ますますわからなくなってきて、ややひきこもっています。

でもこんなときだからこそ、自分のおもっていることを多少でも言語化するほうが精神の健康上よさそうに思うので、書いてみた↓ 

* * *

Img_0239 戦争に反対しません、平和に賛同します、という趣旨の文章を最近いくつか見かけたけれど、違和感を感じてしまった。言いたいことはわかるし、わたしも同じように感じる部分があるのだけれど。たぶん、戦争と平和が対比されていることへの違和感かな。

平和ってなんだ?なにを平和と呼んでいるのかが今一つわからない。戦争がどこにも起きていない世界状態のこと? 戦争だけでなくさまざまな不平等がない世界のこと? それともさらに、対立や葛藤がなくて、心が穏やかで、すべて調和がとれている状態が、すなわち平和ということ? 

それが平和なんだとしたら、全身の体重が全身の骨格に均等に受け止められてバランスがとれている状態と同じくらい、そういうのは一過性の状態なんじゃないか。体と同じで、現実には常に均衡のとれた状態にあるわけではなくて、さまざまに動きつづけているのが世界だし人生だし自然だし、葛藤や不一致や対立があって、揺れ動いたりもしている、自分自身の中でも、他者との関係性の中でも。

揺らぐなかで、しばし調和の状態を通過するときもあるかもしれないけど。揺れながら、そのときどきの不一致同士がやりとりを続けて、そのときどきの最善に向かうというプロセスの中にいるのが、常なることなんじゃないか。

均衡点や正解はそのときどきで移り変わるのだと思うし、動きのないところに自然も自発性もない、というのがわたしの世界像です。

戦争は今すでにある、実際に起きていること。意見や価値観の不一致の解決手段としての戦争に、わたしは反対する。自分がよいと思うこと、好きなことのために他者を暴力で従わせることに、反対する。

20150605_043520 対立すること自体は反対しないし、反対したって、日が昇ることに反対するのと同じくらい意味がないと思っている。

力で押し切る、というそこが、どうしてもすきになれません。不一致に対して、もっと別のアプローチの仕方がいっぱいあると思うから。力のあるものが、力にもの言わせて圧倒して相手を思うどおりにしていく、「暴力」に、わたしは「ノー」と言います。それは多分に、わたしの個人的ヒストリーのせいもあって、この点について「ノー」というとき、わたしは結構力が入る。

つまり戦争反対という以前に、あらゆる権力の乱用に反対。戦争という極限の場での、兵士に対しての権力の暴力が、なによりいちばんいやだ。それにしても、力の乱用の中でも、醜さがわかりやすいのが戦争だと思う。

「戦争」と「平和」を<現象・状態>として対比させるかわりに、「戦争」と「対話・相互尊重」を<手段>として対比させてるみたいです、自分は。そこから戦争に反対している。

だって、みんなが「これがすき」と思うことが一致しないかぎり、なんらかの不一致はいつだってある。「これをすきでいないといけない」ということが統一されることなんてないし、あってはいけないし。

それぞれがそれぞれの「すき」を大切にしながら全体として調和の中にいる、というのが<現象・状態>としての平和として、好ましいと思うけれども、でもやっぱりそうなると、その平和の中には細かな「すき」のぶつかりあいや微調整のためのやりとりが常にあるはずで常に動きがあるはず。

Img_7598 なにがあっても平穏でいたい、という理想があるのもわかるし、わたしにもそういう気持ちがあるけど、なにがあっても心が動かされないなら、それはなにも大切に思っていない、ということだとも思える。なにも大切に思わないような人間には自分はなりたくないな。

なににも執着もこだわりもなく生きたい、という欲求もないわけではないけど、そこを目指すなら本気で覚悟して出家でもしないと、自分の中に分裂を起こすばかりになるように思う、わたしの場合は。自分の想いの一部を切り離して平穏を得てもしょうがない気がしてしまいます。

大切に思っていることがあれば、それらになにががあったときは、平穏ではいるのは難しくなるし、そんなときは平穏を保つことを目指すかわりに、平穏でない自分、いろんな心の動きがある自分をわたしは尊重したい。自分のまるごとの現実を。それから、いろんな心の動きが、他者にもあることを、尊重したい。そのうえで、折り合いをつけていく方法をさぐっていきたい。

20120717_184004 なにかに「反対」するときのエネルギーがいやなんだというなら、それはすごく同意。反対することが主目的の反対運動ほど、避けたいものはないし。でもわたしには、激しい感情とともに「反対!」を叫ぶ人のエネルギーがどんなものか、断定なんてほんとはできない。その人の背景も知らずに。抜き差しならない個人的事情や想いがあるからこそ、叫ばずにいられない人を、「そういう激しい叫び方はいやだからやめてほしい」とは言えない。

そこらへん、やっぱり表面だけで判断できることではないし。そんなふうに叫ばずにある程度平穏でいられる、落ち着いていられる自分を、より精神的に高次元にいるかのように錯覚してしまいそうになるなら、それは違うよと私は自分に言う。落ち着いていられるというのは、「精神的成熟」の結果である場合もあるだろうけど、たまたま自分はもう少し幸いな境遇にいてつらさの実体験がなかっただけか、もしくは単純になにか見えていないことがあるだけなんじゃないか、と。

無知でいれば落ちついていられるから、だからこそ、無関心という手段で自分を守ったりもするんだろうし、そういうふうに閉じて自分を守る必要がある時期もある。わたしは特にそうです。ただそうしているあいだは、自分がそうやって自分を守っているんだなって自覚していたいと思う。平穏と平和を望むからこそ、何が起きているか知ろうとしないでいるとき、他者の想いに耳を開かないでいるとき、自分はそこまで心がかき乱されているんだと自覚したい。

20130713_214124 自分自身が、一人ひとりが平穏に生きることで世界平和は実現する、というのはたしかに真実だと思う。まずは自分からはじめる、というのはその意味でも大事だと思うのだけど、でもその「平穏」の質をつぶさに見ていく用意がいると思う。

簡単な”正解”にとびつかないで、表れてくるものに立ち会いつづけ、その場その場で執着やこだわりを一旦手放して、前提を問うて考えつづけ、工夫しつづけ、動き続ける体力と気力と、ある意味でのおおらかさが、ほしいな。

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2015.07.09

削り馬(4)

フルタイムで鶴の機織りのようにお仕事するのを8日続けて、ようやっと昨日解放され、今日はお休みすることにしました。でもお天気は雨模様。。。

20150630_12252720150630_122643、先月末のグリーンウッドワークのスプーンづくり講座で途中までつくったスプーンを、仕上げました。家で愛用している、(み)ちゃん作のスプーンの仲間となるように、(み)ちゃんのスプーン(こげ茶のほう)をお手本に仕上げの削りをナイフでやるところまでは終えていたので、最後の工程の亜麻仁油を塗りました。

20150709_114032油がなじむと、年輪がさらにきれいに浮き出てきた気がします。タムシバの木、きれいです! ところどころ、茶色い線がすすっと出ているのも、タムシバの特徴で。これは虫のせいとかではない、本来の味わい。

今回はやすりがけをしないことにしたけど、講座を指導してくださった加藤さんは、やすりがけが結構すきな作業だとおっしゃっていて、「サンディング・ハイ」なる言葉を口にしていらっしゃいました。その境地もわかる気がする。。。!

20150709_103414 で、講座の最後に、仕上げの工程のお話のなかで、紙やすりのかわりにムクの葉や砥草も使えます、と教わり、その場でムクの葉をいただいたのがあったのを思い出しました。。。早速、ちょっとまえにつくった携帯用ミニフォークが、若干つかいづらかったので、微調整した仕上げに、ムクの葉でやすがけしてみた。いやあびっくり。気持ちよくつるつるに!!

ムクの木、すごい。葉っぱを乾燥させるだけで、こんなにすばらしいサンドペーパーになるなんて。砥草も試してみたいものです。。。

* * *

そして久々に、削り馬プロジェクトに戻ってみました。生木のセンダンを後ろ脚に加工して、乾かすところで止まっていた削り馬くん。

20150709_142620 後脚のテノンは、乾ききっても思ったほど縮まなかったので(梅雨だからかもしれないけれど)、もう少し削り込んで、差し込みました。(梅雨があけたらぶかぶかになってしまうだろか。。。)

前脚は、ボディに差し込む穴を貫通させず、途中までの深さにしてみたので、後脚も同じように貫通させないスタイルにしてみました。乾いた季節になってぶかぶか・がたがたするようなら、全部の脚を貫通させるスタイルにして調節を試みてもいいかもしれない。

もう少しちゃんとした定住型削り馬をつくろうかとも思ったけれど、とりあえず、前回つくった移動式の膝のせ(ラップトップ)型削り馬をそのままボディの上にぽんと乗せてしまいました。。。一番上の、作業面になる木のブロックは、どこにも固定されていないただのブロックで、裏面にすべりどめのバックスキン(革)が貼ってあります。

20150709_142814 ラップトップ型のときに前脚を差していた穴を使って、ラップトップくんを馬くんのボディに固定しています。ここの固定のための棒は、こんなに長い棒である必要はぜんぜんないのだけど、一番最初にラップトップ馬を試作したときの最初の脚(Y字が小さすぎて不安定だった)があったので、それを差してみたところ、角のある生きものみたいなったので、おもしろかったので、そのまんまです。

ややヘラジカ風? 

20150709_144132 ラップトップで使うときに自分の体に固定するためのベルトは、おしりのリボンになりました。

ラップトップのときに使っていたのと同じ前脚をつかうと、必然的に、背の高い削り馬になってしまいます。これがちょっと微妙かなあ。。まあもう少し使ってみて考えてみよう。

押さえフレームのピボット点は、高い方が、ちょっとペダルを踏むだけでしっかり押さえが効く、と考えて、こうしているけれども、ボディそのものに横穴を開けるて押さえフレームを取り付けることもできますね(そうやって削り馬をつくっている人のほうが多そうにも思う)。そうした場合は、ピボット点は低くなるので、踏み込みが大きくなるけれど、全体の安定はぐんとよくなるはず。太い材や長さのある材を押さえて作業するときには、安定がよいことのほうが大事になってくるのかな。

とりあえず、まずはこれで、テストランをしてみなくちゃ。なにつくろう。。。



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