« 削り馬(4) | トップページ | 急にラジオが。。。 »

2015.07.20

ことばを発してみる

20150715_082902 庭に咲いたヒメヒマワリ、長く咲くかわいいお花で、仕事の伴走をしてくれています。ありがとう。

去年、茎を一枝折ったのを挿したランタナも二度目の開花。かわいいぼんぼり型で、このお花、大好きです。20150714_150726

このところやや鬱傾向の感じがずうっとあって、調子がよくないです。いろんなことから影響を受けてヘタレやすいこの頃。人とどう接したらいいのか、ますますわからなくなってきて、ややひきこもっています。

でもこんなときだからこそ、自分のおもっていることを多少でも言語化するほうが精神の健康上よさそうに思うので、書いてみた↓ 

* * *

Img_0239 戦争に反対しません、平和に賛同します、という趣旨の文章を最近いくつか見かけたけれど、違和感を感じてしまった。言いたいことはわかるし、わたしも同じように感じる部分があるのだけれど。たぶん、戦争と平和が対比されていることへの違和感かな。

平和ってなんだ?なにを平和と呼んでいるのかが今一つわからない。戦争がどこにも起きていない世界状態のこと? 戦争だけでなくさまざまな不平等がない世界のこと? それともさらに、対立や葛藤がなくて、心が穏やかで、すべて調和がとれている状態が、すなわち平和ということ? 

それが平和なんだとしたら、全身の体重が全身の骨格に均等に受け止められてバランスがとれている状態と同じくらい、そういうのは一過性の状態なんじゃないか。体と同じで、現実には常に均衡のとれた状態にあるわけではなくて、さまざまに動きつづけているのが世界だし人生だし自然だし、葛藤や不一致や対立があって、揺れ動いたりもしている、自分自身の中でも、他者との関係性の中でも。

揺らぐなかで、しばし調和の状態を通過するときもあるかもしれないけど。揺れながら、そのときどきの不一致同士がやりとりを続けて、そのときどきの最善に向かうというプロセスの中にいるのが、常なることなんじゃないか。

均衡点や正解はそのときどきで移り変わるのだと思うし、動きのないところに自然も自発性もない、というのがわたしの世界像です。

戦争は今すでにある、実際に起きていること。意見や価値観の不一致の解決手段としての戦争に、わたしは反対する。自分がよいと思うこと、好きなことのために他者を暴力で従わせることに、反対する。

20150605_043520 対立すること自体は反対しないし、反対したって、日が昇ることに反対するのと同じくらい意味がないと思っている。

力で押し切る、というそこが、どうしてもすきになれません。不一致に対して、もっと別のアプローチの仕方がいっぱいあると思うから。力のあるものが、力にもの言わせて圧倒して相手を思うどおりにしていく、「暴力」に、わたしは「ノー」と言います。それは多分に、わたしの個人的ヒストリーのせいもあって、この点について「ノー」というとき、わたしは結構力が入る。

つまり戦争反対という以前に、あらゆる権力の乱用に反対。戦争という極限の場での、兵士に対しての権力の暴力が、なによりいちばんいやだ。それにしても、力の乱用の中でも、醜さがわかりやすいのが戦争だと思う。

「戦争」と「平和」を<現象・状態>として対比させるかわりに、「戦争」と「対話・相互尊重」を<手段>として対比させてるみたいです、自分は。そこから戦争に反対している。

だって、みんなが「これがすき」と思うことが一致しないかぎり、なんらかの不一致はいつだってある。「これをすきでいないといけない」ということが統一されることなんてないし、あってはいけないし。

それぞれがそれぞれの「すき」を大切にしながら全体として調和の中にいる、というのが<現象・状態>としての平和として、好ましいと思うけれども、でもやっぱりそうなると、その平和の中には細かな「すき」のぶつかりあいや微調整のためのやりとりが常にあるはずで常に動きがあるはず。

Img_7598 なにがあっても平穏でいたい、という理想があるのもわかるし、わたしにもそういう気持ちがあるけど、なにがあっても心が動かされないなら、それはなにも大切に思っていない、ということだとも思える。なにも大切に思わないような人間には自分はなりたくないな。

なににも執着もこだわりもなく生きたい、という欲求もないわけではないけど、そこを目指すなら本気で覚悟して出家でもしないと、自分の中に分裂を起こすばかりになるように思う、わたしの場合は。自分の想いの一部を切り離して平穏を得てもしょうがない気がしてしまいます。

大切に思っていることがあれば、それらになにががあったときは、平穏ではいるのは難しくなるし、そんなときは平穏を保つことを目指すかわりに、平穏でない自分、いろんな心の動きがある自分をわたしは尊重したい。自分のまるごとの現実を。それから、いろんな心の動きが、他者にもあることを、尊重したい。そのうえで、折り合いをつけていく方法をさぐっていきたい。

20120717_184004 なにかに「反対」するときのエネルギーがいやなんだというなら、それはすごく同意。反対することが主目的の反対運動ほど、避けたいものはないし。でもわたしには、激しい感情とともに「反対!」を叫ぶ人のエネルギーがどんなものか、断定なんてほんとはできない。その人の背景も知らずに。抜き差しならない個人的事情や想いがあるからこそ、叫ばずにいられない人を、「そういう激しい叫び方はいやだからやめてほしい」とは言えない。

そこらへん、やっぱり表面だけで判断できることではないし。そんなふうに叫ばずにある程度平穏でいられる、落ち着いていられる自分を、より精神的に高次元にいるかのように錯覚してしまいそうになるなら、それは違うよと私は自分に言う。落ち着いていられるというのは、「精神的成熟」の結果である場合もあるだろうけど、たまたま自分はもう少し幸いな境遇にいてつらさの実体験がなかっただけか、もしくは単純になにか見えていないことがあるだけなんじゃないか、と。

無知でいれば落ちついていられるから、だからこそ、無関心という手段で自分を守ったりもするんだろうし、そういうふうに閉じて自分を守る必要がある時期もある。わたしは特にそうです。ただそうしているあいだは、自分がそうやって自分を守っているんだなって自覚していたいと思う。平穏と平和を望むからこそ、何が起きているか知ろうとしないでいるとき、他者の想いに耳を開かないでいるとき、自分はそこまで心がかき乱されているんだと自覚したい。

20130713_214124 自分自身が、一人ひとりが平穏に生きることで世界平和は実現する、というのはたしかに真実だと思う。まずは自分からはじめる、というのはその意味でも大事だと思うのだけど、でもその「平穏」の質をつぶさに見ていく用意がいると思う。

簡単な”正解”にとびつかないで、表れてくるものに立ち会いつづけ、その場その場で執着やこだわりを一旦手放して、前提を問うて考えつづけ、工夫しつづけ、動き続ける体力と気力と、ある意味でのおおらかさが、ほしいな。

|

« 削り馬(4) | トップページ | 急にラジオが。。。 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 削り馬(4) | トップページ | 急にラジオが。。。 »