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2017.05.11

は~

昨夜あんなことやこんなことを思ったり書いたりして、一晩眠って、今朝起きぬけに思ったのは、ああ、ゴールデンウィークの合宿の日々を、オーガナイズ面で支えてくださってたスタッフのみなさまは、ほんとにすごい働きをしていたんだなあ、おかげさまだったなあ、ありがとうだったなあ、ということでした。

わたしは大変な思いをしている自分の体験に埋没していて、ほかのみなさんのことを振り返る余地もなかったのだなあ。ほんとうに深く埋没していたみたいです。

でも、出てこれたもよう。ようやっと。

まだ心の水面にはすぐ波風が立つ状態ではあるけれども、嵐はやり過ごしたのだと思う。

情けないけど、これが今の自分のありよう、力量、体質、気質、なのだなあ。。。

ありがたいことに、ゴールデンウィーク明けはまだお休みをいただけていて(翻訳仕事に切れ目ができたのは、もうほんとうにほんとうに久しぶりで。。!)、すごくゆっくり、休んでいます。家のことでやらなくちゃいけないことはいろいろあるけど、とりあえず、自分のリハビリを優先しています。

Img_0924 読みかけだった本を読了。『ユマニチュードという革命』。ユマニチュードは認知症の高齢者の方々のケアのためにフランスで考案されたメソッド。当事者の方々にとって、ほんとうに希望の光のようなメソッドだと思いました。

認知症の方は、認知の機能は欠けても、感情の機能は健やかに働いている、ということが、よくわかりました。怒ったりわめいたりすることがあるのは、感情の機能も損なわれているから、ではなくて、怒りたくなるまっとうな理由があるから。感情でわかることなら、伝えられるし、わかりあえる。そうやってわかりあえたときの、ご本人の喜びは、どんなに大きいだろう。。

コミュニケーションをするうえでの表現の仕方が、世間一般の人とは異なってしまうがために、人間以下のように見なされてしまうというのは、ほんとうに悲しいことです。

動物や虫に対してもそうだけれど。自分と同じ表現の仕方をしない相手の、存在のインテグリティと尊厳を、簡単に忘れないようにしたいです。忘れてしまいやすい状況であっても。。。違いはあっても橋をかけて、コミュニケートしたいし、少なくともお互いに平等な存在として、ただいっしょにいられれば、と願う。

自分が大事にしたいのは、そういうようなことなんだ、と改めて。上から目線でお世話したりかわいがったり指導したり、下から目線で従ったりあこがれたり教わったり、ということをしないですむ関係性の中に、身を置きたい気持ち。

そのためにはただ相手の存在の真実を見ることなんだろうけれど、それはなかなかにチャレンジだなあああ。。。

ユマニチュードのジネストさんが言っていた、奉仕の概念にはそもそもキリスト教的な影響があること、そこのところは、もうすこし自分の中でもよく見ていったほうがいいところだと思っているところ。相手のためになることをしているはず、という意識について。。

* * *

Img_0925 もう1冊、精神が大変なときに一番に手が伸びた本は、ホクレア号についての本、『星の航海術をもとめて』。再読。ページを開くだけで落ち着く。ナイノアさんの声を思い出すと、霞がかかった自分の思考がくっきりしてくる感覚が来ます。

自分が生きているなかで、関わっていきたいことが、どのあたりにあるのか、再検討してみているここ数日なんだけれど、ホクレア号が意味することは、たぶん、自分にとってすごくセントラルなのだろうな。

そこにどう取り組んでいったらいいのか、よくわからないけど、とりあえず、心のレーダーが反応していることは気に留めておく。

* * *

Img_0881 ゴールデンウィークの合宿でのお仕事には、会場から歩いて30分くらいのキャンプ場から通いました。それもチャレンジを増やした原因にもなってたけど(雨が降って地面がゆるんでペグがゆるんでテントが倒壊したらどうしよう、とか、会場に遅刻せずに行けるかな、とか)、でもチャレンジを上回る恩恵がやっぱりあった。

Img_0891 4泊したけれど、毎朝ろうろうとうたうオオルリの声で早くに目ざめました。今年は毎朝すっきり晴れて、ほんとにありがたかったです。朝日が木々のあいだから差し込むなかで、朝ごはん。1日目は慌ただしく食べて焦りながら出かけたけど、翌朝からは段取りも慣れて、早起きもできて、すこしゆっくりできました。持参したハワイコナのコーヒーをお外で。Img_0880

うちのテントのすぐ近くで毎朝うたってくれてたオオルリは、うたがほんとうに上手で、いい声で。しかもクリエイティブ。基本のフレーズがあって、そこにとてもさまざまに毎回違うバリエーションをつけてうたいついでいくスタイルです。ずうっと聴かせてもらえて、たいへんありがたかったです。

Img_0879 夜は早めにキャンプ場に戻って、キャンプ場となりのお風呂に入って早めに就寝する予定でいたけど、合宿会場を出るのが遅くなる日もあって、お風呂に入れなかったり、まっくらな夜道を歩いてもどってくることもありました。相方と別々に、ひとりで夜道を帰ってきた日は、膨らみつつある月明かりのもと、明かりなしでキャンプ場までずっと歩きました。いわゆるナイトハイク。

暗闇にまぎれて歩く自由を体感しました。暗さに慣れてくると、いろいろよく見えるし。闇にまぎれられるのは、安心感がありました。たまに車が通ってヘッドライトが近づくと身を固くした。つくづく、自分にとって怖いのは人間なんだなあ、と思いました。

とはいっても、キャンプ場でキャンプをしている他の家族連れなどは、怖くなかったです(あたりまえか)。テントの入口の扉を開け放って、木々を見上げながら寝ころんで、そのうち眠ったりしました。

キャンプ場のおじさんは、年に1度しか行かないけど、ほぼ毎年この時期に行っているせいか、わたしの顔と名前を覚えてくださっていて。。いつもちょうどいいタイミングでぽっと手を貸してくださるのだけど、今回も。撤収を始めて、事務所へ返しにいかなきゃいけないレンタル毛布をたたんでいたら、ふらっと「生きてる?」と言ってサイトに現れて、しばし立ち話。。そして「あ。じゃ、それ、もらっていくわ、ついでだから」と毛布3枚をかついで行ってくださいました。

あのさりげなさ、毎回不思議。どういうふうにしたらああなるのかな、と。

撤収をみんなおえて、事務所にあいさつに行って、「となりの温泉に入ってから帰りたいので、それまで荷物をサイト脇においておいていいですか、とられて困るものはないので」と言うと「いいですよ~、じゃ、おれがもらっとこう」。最後にお礼を言ってさよならを言うと、別れ際に一言、「じゃ、お風呂でおぼれないでね~」。まじめなのかふまじめなのかわからない抜け加減に、なんか救われました。

Image_xlarge3 Img_0894Img_0904 乙女の森の木々にも草花にも小川にも小鳥にもおじさんにも、ほんとうにお世話になっていて、ありがとうの気持ちです。Img_0898

今年は自分には大きめなチャレンジをして、神経がくたびれはててしまったけど、焚火のパチパチいう音や煙のにおいも心の鎮静剤になりました。Img_0912

あのキャンプ場が変わらずありつづけてくれていて、ほんとにうれしい。

あのキャンプ場も、やっぱり、皆が過ごしやすいように整備して、草を刈ったり枝を払ったり薪をつくったり(手で割っていました)、トイレや炊事場をお掃除してくださったりしている方々のおかげさまであんなに快適に過ごせるんだなあ。。。ありがとうございます。

さて、今度は、もうちょっとがっつり遊ぶキャンプに行きたいなあ。。



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2017.05.10

自由の体験

満月前夜。ウエサクの。

数日前、ひさしぶりに精神が壊れました。

たぶん神経がまいって、疲れがピークに達していたんだと思う。

120人の人と連日一緒に過ごした、合宿の日々。そもそも大人数の場が、わたしにとっては大変難しく、ただそこに居るだけでチャレンジでした。初日夜のセッションから合流して、2日の夕方には電池切れに。個室に避難させてもらって、少し眠りました。

一番苦手なことにチャレンジして、なんとかやれたけど質はどうにもこうにもという結果になって、悲しかったり。。。

通訳チームの一員として、みなさんの学びとコミュニケーションがなるべくスムーズになるように、自分が通訳を担当する時間以外のクラスにも出席して、内容を把握しておいたり、他の通訳さんがどんな訳語をあてているか学んだりしていたので、朝から夕方までは結構ぴっちりで。ぼんやりする時間をほぼつくらずに過ごしてしまった。そこにいることを楽しむとか、学びを楽しむとかのゆとりなどなく。。4日目夜には神経が参ってしまった。

大人数が集まるイベントの通訳がこんなに苦手になったのはいつからだったろう。こんなに過剰反応せずにできていた時期も、すごく昔はあったことを思うと不思議。作家さんたちのイベントとか。舞台の上に立ってマイク持って通訳もしていた。あれは若気の至りというやつだったんだろか。それともこの過剰反応は、やっぱりこの合宿を構成しているコミュニティにまつわるものなんだろかな。このコミュニティでの自分の立ち位置が規格外なことに起因しているのかな。20年関わり続けてきてしまったこのコミュニティが、自分にとっての”ホーム”でなくなってから久しいこと。。。?

精神が壊れたときのことを、振り返ってみる。主観的に体験したことを書いておいてみる。

まず、まわりの人のなぐさめやはげましの言葉が、ぜんぜん体に入ってこなかった。どうしようもなく。言葉をもらえばもらうほど、自分がただいま体験しているきつさは決してわかってもらえはしないんだという絶望感が募った。わたしの認識が間違っていることを教えてくれようとする言葉が、耳に入らない。わたしの認識が間違っているかもしれないという可能性を見るゆとりがなかった。自分はここにいる価値がない、という認識は岩みたく固くて、まったく揺らがなかった。

夜中、ふとんを抜けだして、そのまま外へ出て海まで歩いた。何も考えることも感じることもなくて、ただ、のっぺりとした絶望感の中で、体に運ばれるまま歩いた。このとき、いつもの自分の歩き方とはぜんぜん違う歩き方をしていた。腰の入り方がまず違っていて、そしてなんだかスタスタと歩けて、いつまでもどこまでも、疲れることなく歩けるふうだった。体が楽だった。いつもの緊張から解放されていたっけ。それに暗い夜道をひとりで歩いているのに、なんにも怖くなかった。恐怖心がみじんもなかった。そういう意味ではすごく自由だったな。不思議なほど。あとで相方にこれを報告したら「エゴがなかったからだ」と言われた。

海まで来て、月を見て、しばらく座った。向こう側へすでに旅立っている家族を思い出して、名前を呼んだ。もうやめさせてほしい、そっち側に連れて行ってほしい、と心底願った。

そうやってしばらく泣いて。それからまた家へ歩きだしたのだけど、歩いているうちに、ひらめいた。生きていることを「いいこと」とする信念が出回っていて、自分もそれを信じようとしてきたけど、自分の体感・実感は真逆だということ。まだ生きることを終わりにさせてもらえないのは、まだ年貢が明けないからで、自分がそもそも、とても悪かったからだ、だから今はまだ耐えて、ここで年貢を納めないといけないんだ、と。そういう想いが出てきて、それはとても自分の体感にしっくりくる想いでした。生きていることをポジティブにとらえたことは、やっぱり自分は昔からなかったみたい。ポジティブにとらえることがいいことだ、と考えて、そうしようと試みてきたのはあるけど。

ここにこうして生きていることが苦行に感じられる。なんとか苦しさから気を紛らすために、楽しいことをいろいろ見たり考えたりやろうとしたりしている自覚は、常にありました。でもときにほんとうに疲れはてていて、もう終わりにさせてほしいと切に願うときが来る。もう許してほしいと。

この世界は美しい、と人は言うし、そのように思える瞬間もあるけど。でもデフォルト思想としてそう思えるかというと、違うみたい。ほんとうに自分の感覚に正直になると。。。

軽やかに明るい人になりたくて、そうなりすましているつもりになったりしてもいたけど、自分はやっぱりそうとうな暗さを抱えているんだな。それについては、どうしようもないんだな。耐えることはよくない、好きなことをして生きていくのがみんなの幸せのため、世界平和のため、とされる風潮の昨今、耐えている実感がある自分を持て余してしまう。世界に対して申し訳なさが募ります。

居場所が、ないというか、肩身が狭い。

この肩身の狭さ、不自由さと、夜道をスタスタ歩いていたときのあの自由さは、対をなしているのかな。能面のような顔をして、てぶらで部屋着のまま、真夜中に浜のほうへ夜道を横切って歩いたわたしは、通りがかった車の人とかからみたら、おばけか、というくらいの気味悪さもあったかもしれないけど、そんなことも気にならなかった。めちゃくちゃ人が怖くておかしくなったのに、あのときはまったく人が怖くなかった。

あのときわたしは、社会の外へ出ちゃっていたんだな。ほんとうに外れ者になってた。そしてあの境地は、すごく自由だったな。

わたしは社会を気にし過ぎなのかな。まわりの人のことを。もっと人のことを気にせずに、ここにいてみたらいいのかな。外れ者なのは、どっちみち変わらないんだったら。

尊厳を持って生きたいという願いがありました。尊敬までされなくてもいいから、存在することは認めてもらいたかったというか。

それでせめて、みなさんのお役に立てれば、ここにいてもいいことになる、と思えて、一生懸命お役に立とうとしてきた。

ぼんやりと自分のままでたら、ここにいてはいけなくなる、というのがありました。お役に立っていないと、と。でもそうやってがんばっているの、つかれました。

役立たずのわたしのまま、ただ、ここにいるしか、いまはできなさそう。ちきゅうに、ごめんなさいとおもう。

今まで学んできたさまざまなツールやメソッドがあるのに、どれも使う気になれない。前向きに自分を振り向けるだけのエネルギーが、ない。うずくまってるしか、ない感じで。たぶん生き物としての自分の本能に、まかせるのがベストだと、どこかで思っています。

あらゆる小手先の工夫に背を向けて。自分の主観・体感だけに従う。そういうプロセスを欲してもいるんだと思う。主権の回復。あらゆる”正しさ””ふさわしさ”“望ましさ”から離れて、ただの自分がただいま体験していることを、ただ体験していたい欲求。

いまだけは、そういう時間なんじゃないかと思えています。翻訳仕事もちょうどいまだけ、少し空白をもらえているし。

そうやって自分の体験とただ共に居る時間を、ふだん、持ってこなさすぎたのかもしれなくて。いつでもすぐにどこかへ向かおうとしすぎてたのかもしれなくて。白旗を上げて、ただここにいる。

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