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2018.12.20

贈り物包みのアイデア

Img_7210もうすぐ冬至。。毎年冬至の前には「猫の額庭」の植物のみんなに一肌脱いでもらって、常緑のリースをつくっていたけど、今年はつくらないままになってしまった。。今からでもつくるといいのかな、と思いつつぼんやりしています。写真は2010年につくったもの。食べたあとのミカンの皮を干しといたのを飾って、明るくつくったんだった。3.11前の日々のことは、記憶の中で断絶があって、このリースをつくったときの記憶も、振り返ろうとすると不思議な気持ちになる。

でも過去の12月の写真を眺めていて、冬至のころに贈り物をしあうのって、寒い北半球の場所ではこころがぽっとあったかくなるいい風習だなあと、しみじみ思った。年末にこころの調子をくずしやすい自分も、サンタさんにだいぶ助けてもらってきたんだなーと思う。

贈り物は、包むのも楽しい活動。。。 このところ、何年か前に使ってたGreen Peaceさんの大きな写真カレンダー(動物が自然の棲み処で写っている)を大事にとっておいたのを、包装紙にして使ったりしています。大きいカレンダーだと、いろいろ包めて便利。しかもカレンダーはたいていしっかりした紙質なのでよいです!(小さめの贈り物なら、風景やきれいなものが写っている雑誌のカラーページもいいですね…)。

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Img_6556Img_6017_2こないだはワシが写ってる月のカレンダー紙で包みました。

ペンギンが写ってる月は、包んだらちょうどペンギンが左隅に来た♡

少し前にはヤギが写ってる月でワインを包みました。このときはドライフラワーでつくったミニスワッグを首からかけてみた。

ドライフラワーのスワッグは、手軽につくれてかわいいので、贈り物に添えるの楽しいです。

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スワッグそのものをプレゼントにしたときはこんな感じに包んでみた。

チョコとハンドクリームを贈るときにミニスワッグをつけてみたりしたこともあった。

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気に入った植物をいただいたり見つけたりしたときに、家の中のあちこちにつるしておけば、それらをちょこっとずつ合わせるだけでスワッグがつくれます。元気なうちにつり下げるとわりときれいな色のままドライフラワーになる花、結構あります。

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いただいた花束が、ドライフラワーのスワッグになったり。。

プレゼントを包むときのリボンとセロファンは、新しいのを使いますが(といっても、結構手元にとっておいたのを使うこともあるけど…)、それ以外はたいてい家の中にあるものでいろいろに工夫するのが楽しいです。リボンのかわりに毛糸や紙紐もかわいい。貝殻や生の小枝やハーブを添えるのも、楽しいし。。

Dscf0001余り布(古着を切った布とか)と、手彫りの消しゴムスタンプと両面テープで、布シールをつくるのも一興。お手紙の蝋のスタンプみたいな感じに使ったりして。

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このファブリックシールは2008年につくったもので、おぼろげすぎる記憶だけど、スタンプ柄のモチーフに、カール・ブロスフェルトという、19世紀生まれの植物学者&写真家の写真集「Art Forms in Nature」(初版は1929年)に入っている1枚を使いました。今も好きな写真。Photo

この写真集は全部モノクロの、植物の接写写真ばかりで、とてもすばらしいです。

でも、そんなに手間をかけなくても、手頃な既製品の不織布袋と植物を組み合わせても楽しい感じになりますね!

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こんなふうにしたこともありました。

***

ささやかでもなんとか贈り物ができること自体に、感謝しつつ。。。さまざまな事情で大変な状況にある方々に、少しでもたくさん、やすらぎと楽しさがもたらされますよう。。。

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2018.12.18

笛づくり・フォークづくりと、生活の中でつくることについて

Img_6520 Img_6519 急にぐんと寒くなってきて、「猫の額庭」ではひまわりのタネが飛ぶように売れています、シジュウカラのみなさんに。そして私はよく眠くなるようになってきて……そういえばもすうぐ冬至、と思い出してナットク。

まるで冬眠するみたく、まるまって静かに眠っていたい欲求があること。冬はうちにこもる季節、なんだなあ、と。

それなのに、まちはクリスマスソングであふれてるし、パーティーの季節ってことでなんだかキラキラにぎやかめな気が満ちている気もしたりして、あわわ。

ストーブの前でもくもくと木削りや編み物をするのが、ちょうどいい感じであります。

Img_6468 仕事が忙しかったのがいったん落ち着いた数日前、割れたお盆や壊れた洋服掛けを直してたら、ふと木の笛をつくりたくなりました。こういう欲求はいつも、急にやってくる…。

で、手持ちのケヤキの枝で、さっそくつくってみました。グリーンウッドと言えるかどうかは微妙なケヤキ。今年5月に伐採されたのをうちの軒先で保管しておいたもの。

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Img_6471 10センチくらいに切って、中にドリルで空洞を開けて(底は残して)、音が出る穴を表面にドリルで開けて。空洞にしたときのドリル穴の径に合わせて、ラウンダーで粗く丸棒にしたケヤキをナイフで削り、さらにその丸棒の一面を落としてから差し込んで、唄口に。

指孔を開けるのとチューニングはこちらの動画を参考にしました: ロシア語?らしく、言葉はぜんぜんわかりませんが、図と画像がずいぶん参考になりました。(この動画の次に出てくる「How to make a wooden ocarina in the forest」もよいです!)

てきとうに指孔を1つ開けて、音程をチューナーで確認したら、ちょうどCだったので、次の穴を開けてDの音を出して。もひとつ開けてEを。順繰りにチューナーで確認しながら進めてましたが、途中から面倒になって、残りの穴はえいやっといっぺんに開けました。

Img_6473 そしたら、ドレミファまではなんとか鳴るけど、ソラシドはほんのり音階がきこえるけどほぼ空気音、というふうになりました(^^;

どこをどう改良すればいいか知りたくて、笛のつくりや構造をリサーチしている現在です。プロのフルート奏者の方にご意見をきいてみたり。ネットで手づくり笛の作り方をリサーチしたりしているところ。

一音階くらい出るようにして、曲を吹けるようにしたいなーという野望があります。

このプロトタイプ笛は、まだ仕上げはこれから(表面をきれいに削ったりしたいし、歌口に突っ込んだ丸棒を切り落としたいーー丸棒は、改良するときにまた抜いて微調整できるようにしたくて今のとこ残してあります)。

***

Img_6501 Img_6505 Img_6507 昨日は、一度お会いしてみたかった長野修平さんに、フォークづくりを教わりに行ってきました。木取りして粗く形にしたものをすでに用意してくださっていて、そこにフォークとしての形を施して整えていくという流れ。

材は、長野さんのおうちの裏山のナラの木とクリの木でした。わたしはナラで。匙面の浅いスプーンを作って、先端に切り込みを入れるとフォークになる、という感じでした。

小学6年の女の子とご一緒できたのが嬉しかったです。みんなそれぞれ味のあるフォークになって、どれもかわいかった!

生活の道具を自分でつくるときには、既製品のようなものを目指すのは違う、と長野さんがおっしゃってたのが心に残りました。

それで思い出したのが、今月初めにうかがった中野のモノ・モノさんで、たまたま手にとった秋岡芳夫さんの著書『工房生活のすすめ』。パラパラとめくっていったら、なんとも心がときめきました。そこで展開されていたのは「裏作工芸」というコンセプト。

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仕事としてつくるとなったら決してつくれはしないものを、「裏作工芸」でつくる愉しさが語られていました。時間をかけたいだけかけてつくる、好きなようにつくる、ということ。

これを「趣味」と呼んでしまえばそれだけのことになるけれど、秋岡さんはこれを「裏作工芸」と呼ばれた。表では別の仕事をしている人たちが、自分の生活の一部を自分の好きなように手づくりしようとする、自然な欲求、自然な動き、として。そういうように生きることのれっきとした一部として「裏作工芸」を位置付けている感じがして、妙にうれしかったのでした。

この本は残念ながら絶版でした。古本屋さんで見つけたら買っておかなくちゃ、と思う。。。

中野のモノ・モノへは、いつもお世話になっているグリーンウッドワークの先生、久津輪さんが、今年の夏行ってこられたイギリスのスプーンフェスの報告会をしてくださるので、うれしく聞きに行ったのでした。

お話はとってもすばらしくて、いつものように元気が出てくる内容だったのですが、自分でもふしぎと、モノ・モノの場にそこはかとない怖さを感じていました。何回かおじゃましてるのだけど、実は毎回感じています。

どうも、モノ・モノ自体は、工芸家でない人たちの「裏作工芸」が視野に入っていた秋岡さんゆかりの場なのに、なぜか秋岡さんのバイブスよりも、プロの木工家の皆さんの集い場という感じを、私が強く受けているからみたいでした。

少し立ち話をした男性は、木工に携わっておられる方みたいだったのだけど、スプーンづくりのワークショップをしたら30代の女性たちが、「刃物こわーい」と言ったりして、その場が彼の思うような場にならなかったらしく……。結論として受講者の彼女たちが「結婚もせず、子どもも持たずに30代40代になっちゃった人たち」で「ちょっと体験してみたいだけ」で、「オーガニックとかそういうのに興味があるふわふわした人たち」だからそうなった、と分析されていて。

彼はそのあとワークショップをしたくなくなってしまったようで、ご自身にとって「痛い体験だった」とのことだったので、お話を聞いていて、お気の毒に感じました。が、でも私の心のどこかで、その彼女たちはほんとうに彼が言うような感じなのかな?と疑問は湧きました。

「刃物こわーい」というのは、刃物を普段使ったことがなければ、当然の感覚です。私自身木削りを始めた当初はこわかった。今だって、こわいときがあります。だからこそ身を守るためのナイフグリップを学んで、より安心安全に刃物を使えるようになりたいと思って勉強しています。

その女性たちにしても、初めて握る刃物がこわくても、木削りがしてみたいと思った心の動きはあったわけだし、「刃物は怖くなく使える使い方があるんですよ」と教えてさしあげられたら、いっかいぽっきりの「体験」で終わらない、長く続く木削りの愉しみへとお誘いできたかもしれないんじゃ、と思ってしまいました。

独身のまま30代40代になった女性はこんなもんだ、と思考停止しないでほしかった、という気持ちが私の中にはあったみたい……なんだけど、ただでさえここにいることを場違いに感じていて、自分の感じているところを言葉にできなかった……プロの木工家の皆さんがどこか怖かった、というのが正直なところです。

木削りする人に心根の悪い人はいない、というのがわたしの持論ですけど(実際何をしてる人でも心根の悪い人はいない、とも思いつつ汗)、プロの木工家の皆さんは、もしかして、一昔前に音大に行った音楽家の皆さんのような、なんというか、つらい体験をお持ちなのかな?と想像してしまいました。

学ぶ過程で、とてもがんばらなくてはならなかった、師匠に対して質問をしてはいけないとか、だまって従わなくてはいけないとか、(だまって殴られたりとかも?)そういう厳しいことをくぐりぬける中で精神を鍛えてこられた人たちなのかも、と……。

そういうことを経て現在があるというところからみると、「結婚しないまま、なにかひとつことに打ち込まないまま30代40代になった”ふわふわした”女性たち」が軟弱の極みに見えるような見え方が立ち上ってくるのかな?と。

実際はどんな人も、結婚しようがしまいが、ひとつことに打ち込んだかどうかに関わらず、必ずみんながんばって生きてきて今がある、とわたしは思っています。その人なりの事情があって、その人なりの生きづらさを抱えながら、みんなやってきているんじゃないかと。そこを尊重しないかぎり、人として対等に向き合えないと思うのです。

客観的に見て、積んできた苦労の度合いが明らかに違う、ということはあるだろうけれど、それと主観的な苦労はまた別物……。

スプーンフェス報告会の中で、唯一、私の心がざわついたのは、久津輪さんがスプーンフェスの中で行われた「スプーン削りとメンタルヘルスについて」というディスカッショングループのレポートを始めたときのこと。会場で聞いていた方々のあいだから、ちょっと笑いが起きたときでした。

どういう意味合いの笑いだったのかな、と気になりました。精神を鍛え抜かれて木工を仕事にできるまでになった人にとっては、メンタルヘルスは笑えるコンセプトってことなのかな?と……。久津輪さんはそのまま説明を進めて、「イギリスの普通の成人は精神に問題を抱えてカウンセラーにかかったことがある人は4人に1人なんだそうです。でもスプーンフェスで講師を務めている人たちのあいだでは、この比率が2人に1人なんだそうです」と続けました。笑う話ではなく、ほんとに真面目な取り組みとして、自分たちが木を削ることに助けられてきた、そうした経験を広くシェアしていこうとしている、というお話でした。

私も自分自身、不器用な自分はこんなとこにいちゃいけない、とグリーンウッドワークのワークショップに出るたびに何度となく痛感して、でもその後またむくむくと木削りしたい気持ちが沸き起こってくる、ということを繰り返してきて、自分にとっての木削りは、精神療法の1つだと認識するに至っています。

いろいろ辛さが来てカウンセラーのところに通ってた大学時代、無性に木が削りたくなって建設現場に落ちてた木っ端を拾ってきて、彫刻刀でやみくもに削り出した自分がいたこと、今でもありありと思い出せるのです。

弱さがあるからこそ、木削りに救われるって、ぜんぜん普通にあるだろうと想像できてしまいます。

日本で木削りがブームになりつつあると、聞くことが増えました。そこにプロの木工家の皆さんが関わってくださることはすてきなことだけれど、木削りのこういう側面を笑ったり軽視したりしないでもらえたらいいな、と願っています。私のような人間にとっては、質の高いモノがつくれるかどうかよりも、つくるプロセスそのものにもっともっと大きな意味があるということを、知っていてほしいです……。

いろいろな気持ちがいったりきたりする中で、私はまだ自分が木削りワークショップをできる力量が十分でないけれど、できるようになりたい、と初めて思いました。女性や子どものみんなに、「自分でできることの愉しさ」を通じて力を返す方法として……。

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2018.12.13

たぶん自分史上最高に長いブログ記事。。。

ブログ、しばらくご無沙汰してしまった。。。ので少し前の記録から。

□11月3日記

今をときめく(らしい)人の言葉を訳してるんだけど、うまくチューンインできなくてすったもんだしまくってる。。。世間知らずだからだろかなー自分が。。で、夕方ごろ、ただダイニングチェアに腰掛けて、何もしない時間をしばらく過ごしてた本日。ただ、いるだけ、ひとりで、おやつも音楽も日記もなしに。それがなんだかしらないけど、しあわせだった。”理由なきしあわせ”。これって最強かも、と思った。

いつもならそんな状況はつまらないなーと思うはずなのに、不思議でした。

□11月9日記

Img_6292 なんだか最近、夜寝てる間にいろんなことがプロセスされて、夜な夜なインスピレーション祭り。。でもわたしのことだからこれは単なる一時的な気の迷い的な盛り上がりかも、と思ったりもしていました。そしたらきのう、ここ数年お世話になっている人のところへ髪を切りに行ったら、すぐさま「クリアーになりましたね!なんか、生きてる」と第一声で言われて、、びっくり。で、だまーって髪を切ってたかと思ったらふいに、「髪はほんとに正直だから。。。今日ははっきり見えるんです、重さがなくなってる」と。「重さって物理的な?ですか?」と質問すると、しばらーく沈黙があったあと「記憶です。記憶がかぶさると見えなくなるんです」。そして「こうやってクリアーだと、切る作業が早い(笑)!」とおっしゃって、たしかにいつもよりかなり早くカットが終了。

終わって「自分でもこれはお祝いしていいことなんだとわかったというか、はからずも、今日はここでお祝いしていただいたようになって、うれしいです、ありがとうございます」とお伝えしたら、目をキラキラさせて(文字通りに。。あんなに人の目がキラキラしたの、久しぶりに見た)「それはわたしもとってもうれしいです!!」と自分ごとのように喜んでくださって。この方がこんな表情をすることがあるんだー、とまたしてもびっくり。うれしかった。。。

クリアーになったのは、クリアーにしようとしてそうなったわけでなくて、結果としてなったことで、、、みんなそもそも与えられているんだなあ。。恵みに感謝するしかないことです。ほんとうに、入れちゃっていた邪魔をやめさえすれば、いいことだったんだー。。。学びは続くし、またころんだりひっくりかえったりするんだろうけど、今ひとときは、お祝いの時間にします :)

□11月17日記

Img_6315_2ここは自分をまともにしてくれる場所だとまた実感したー。

波打ち際にずっと座ってたら、思考がぐるぐるしているのが、やまった。そしたらふいっと、てんとう虫が飛んできてスカートにとまった。こんな植物のぜんぜんない浜辺にてんとう虫がくることがあるなんて、びっくりした。Img_6327Img_6329

それからふいっと、リードから自由になった黒い犬がやってきて、あいさつしていった。

そんでまた海を見たら、波が1波1波、キャラクターが違うことに気づいた。おもしろくて、次から次へとやってくる波をしばらく見ていると、ときおり立ち上がる波の向こう側から陽光がさして、波の中に魚の群れが入っているのが透けて見えたりもした。Img_6316

その魚をねらってるらしきトンビが上空にやってきて、しばらく旋回していたのだけど、トンビの飛行ぶりがすばらしくて感心した。尾と羽根の微細な動きで、風と重力にレスポンドしていく、一瞬一瞬。

それに見とれてたら、私が座ってたのの左10メートルくらいのところに小さい男の子がひとりで座ってたのに気づいた。遊ぶでもなく座ってる。しばらくすると彼はごろんと背中を海に向けて寝転んで、またじっとしていた。風がちょうどいいし、陽もあたたかいし、波音も気持ちいいよね、と思う。。。

私も気のすむまでそうやって、まわりと自分がぴたっとそろって何の違和感もなくそこにいる幸せを受け取っておりました。

1時間くらいたって、均衡をやぶって立ちあがって、歩き出してみた。そしたら砂の質感がここと一歩先でまた違う、温度も違う、砂粒の大きさ、乾き具合……どんどん変わるのがおもしろかった。

薄ピンクの桜貝が落ちていて、光をうけてつやつやに輝くようすがきれいだった。こんな完璧なものをつくる自然ってすごいもんだ、と思った。Img_6332

それから自転車を置いてたとこへ戻って、自転車にまたがったら、赤トンボが飛んできて右肩にとまった。

波のことも、トンビの飛翔のことも、砂のことも、そこに注意を向けてみましょう、と意図的にしたわけでなくて、ただたまたま気づいて、そしたらおもしろかった。てんとう虫も犬も男の子もトンボも気づいたらそばにいた。

ひとりだったけど、世界とデートしたみたいな午後でした。

□11月23日記

おととい、仕事へ向かう電車で、となりに乗ってきたおじさんが、めちゃくちゃ字の大きな本を読んでいて、ちら見したら「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」という老子の言葉をマンガで解説しているページでした。

これを知る者はこれを好む者に如かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

「知っている」は「好き」にはかなわない。
「好き」は「楽しんでいる」にはかなわない。

という感じの意味だそうで……なんかぐっときた。

知ってただけ、好きだっただけ、の時期がどんなにか長かったことか、を思う。。

□12月5日記


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昨日海に天使の滑り台がたくさん出てきてたので、あそこからわらわらと大勢滑り降りてきてるんだよーきっとと相方と言いつつ眺めていました。

風がわりと吹いてて、波の話し声がずうっと続いていて、それがどこか具体的で、もう少しで何を言ってるか意味がわかりそうって感じたのが、おもしろかった。

そしたら今朝がた、夢に亡き母と祖母が出てきた。存命中の父と、私と、母と祖母と、一緒に旅行してた。夢の中ではみんな普通に生きてるからふしぎ。

□12月6日記

近所でねこと新しくお知り合いになることになって、出かけてきました。そのおうちに向かう道すがら、どんなルックスのねこか想像してみようー、と相方と言い合って、なんか白地でキジトラ柄な雰囲気、白地なのにキジトラってどういうことだ?と思った。じゃあ、名前はなにかなー、名前の予想しあいっこしよう、と言い合って、相方は「しんのすけ」(女子だってことだけはこれまでのやりとりでわかってたのに)、わたしは「ちくわ、もしくは、こたつ」と予想。それから、ふと、今までのやりとりから1匹だと思い込んでいたのが、実は12匹とかいたりして!と思い立ち、相方に「さすがに12匹はないけど、まあ3匹いるなー、(ま)さんのことだからきっとそういうことあるよー」と冗談まじりで言ってたら、ほんとに3匹だったのでちょっと驚いた。

んでもって、1匹はキジトラで、もう1匹は三毛にややトラまじり、もう1匹はサビで、サビねこ意外の2匹の姿が重なって私のもとに届いていたみたいでした。

名前については、3匹とも女子だけど、うち1匹は男子名(人間だったなら)が付いていた(名づけたあとに女子だと判明したとのこと)。相方はそこをピックアップしていたもよう。「しんのすけ」ではなかったけど。。

で、ほかの2匹も予想した名前とは違ったけど、1匹は、ここのおうちにきたときの名前(前の名前)が「ちくわ」だったそうでした。

おもしろいなあと思った。で、ルックスについても名前についてもかすってなかった、サビねこさんは、元のらねこで、今もおうちの中で野良化しているというシャイさで。だから気のレベルでも姿を現してくれなかったのか??

これから少しお近づきになれるだろうかな、どうかなー。三毛さんは結局隠れたまま出てきてくれなかったけども、心を許してくれる時がくるといいなと思ってます。


□12月11日記

はちゃめちゃな急ぎの仕事、2本目が終わった。。はふー。
あしたはがっつり休むー。

今回はでも、急ぎの仕事のせいで、そのほかのことを犠牲にするのを最低限にしてみるという実験をして。。ダンスのクラスにも(日にちはずれちゃったけど)出たし、ジャズのライブにも行ったし、ねこシッターに行ってゆっくりねこじゃらしで遊んだー、そして結構出かけている間は、さっくり仕事のことは忘れていられたのが、ものすごく新しい。。(自分比)。しかも無事1本目の〆切も2本目の〆切も守れた(2本目は〆切より1日早く納品できた!)。 

徹夜と半徹のここしばらくだけど、なんとか元気である。。ありがとうありがとうとおもうー


***

Img_6465 さて、それで、今です。

自分の中では、10月末に、ひとつ、おっきな橋を渡った事件(?というか、一連の体験)があって、なんだかいろいろがとても大きく変わった感覚がありました。とはいっても具体的な生活上動きがあったわけでなく、わたしの心身の上でのことなので、うまく言葉にしようがないまま。。。

大きな変化があると、記憶に断絶が起きるような感じもあって。

変化のあとの処し方もむずかしかったりしました。今までと同じではないということになじむまでのあいだの狼狽とか、またもとにもどるのかなという不安とか。でもそれらもみんな食べ物にして進んでいける感じがしばらくあった。

のが、ここへ来て、急に疲れが出たような感じです。

昨日かおとといだったか、久しぶりに、こんな世界に生きていたくないなと思った。

何て後ろ向きなんでせう。。。

ただ、長く、長く、がまんしてきた自分に気づきはじめているからこその、感覚なんだとは思いました。

いつも、何をされても、相手にはなにか事情があってのことだ、と考えるクセがあって、それが仕込まれたのは一桁代の年齢だったこと。

特に相手が精神の病気の場合、つらくても怖くてもがまんするしかないということを学んだのが、早かったこと。

わたしはほんとうに、そんなに寛容でなくてはいけないのか?寛容であることはいいことだとずっと思ってきたけれど、ほんとうにそうなのか?

ちゃんと自覚的に怒るということが、できたためしがなかったのだけど、今回の変化を経て、できるようになって。大変なとりくみでした。怒るということ。

でも、自分には怒るだけのまっとうな理由があるということを、ちゃんと受け取れた。

***

このところ、身体がどんなにか正直かを、日々ひしひしと感じています。

自分に対してふさわしい態度をとれたとたんに、身体が勝手にゆるみだすのを、もう何度も何度も体験していて、これは偶然だとかなんとか言っていられなくなりました。

頭でいくら理知的な結論を導いたところで、身体に響かないものはまったく響かないのだな、と。

いろんな感情が沸き起こってくるときに、それらの感情に対しても、頭で理知的に「そんな感情もたなくていいんじゃない、だって……」と説き伏せていなす、ってことはできるんだけど、それをやるとなお一層深いところにその感情が潜伏してこじれてしまう、と今は感じています。

いなしたり、説き伏せたりでなく、その感情が訴えてることは唯一、その感情にちゃんと耳を開くことなんだと、発見中です。それがどんなに非合理的なものでも、この状況でそんな感情持つなんて、というような感情だったとしても。

気をそらして建設的な活動に向かうことのほうがサクッと不快な感情を離れられていいように思ってたけども、そうすればそのうちそんな感情を持ったことさえ忘れるし、というのがあるけども、でもそれをやっていると身体がだんだん硬くなるのに気づいたからです。

硬くなっていないときは、すごくやわらかで、微妙なゆらぎが常にあって、脱水中の洗濯機に片手を置いただけで胴体全部がびりびり一緒に振動するくらいで、音楽を聴いただけで音楽が心臓あたりにどばっと入ってくるくらいで、ものに手で触るときも、出力に気をつけないと指先がものに接触しただけで痛いくらいで。

でも感情に耳を閉ざしだすと、身体は硬くなっていって、硬いのが当たり前の状態のようになると、まあ、ものを触ってもあんまり指先が痛くないのはいいことかもだけど、音楽が入ってこなかったり、あんなに豊かだった世界を感じ取れなくなってしまうという残念なことになりました。

がんばって、がまんする、という根強いデフォルトの態度があって、これが出てくると、もう世界とのかかわりが切れていくようです。

どんなに理不尽なように見える感情、幼稚なように思える感情も、「そう感じるに足る理由があったね」と100%肯定したい、自分はなにがなんでも自分の見方でありたい、とふかぶかと感じています。

で、これが大人になるってことなのかな、と思った。

大人になるのは、世間でいう「大人な対応」をして、感情を押し殺して笑顔をつくることでなく。まあ、その場ではそうするにしても、家に帰って自分とふたりきりになったときには、自分の感情のケアを自分でできるのが大人なんじゃないかー、と。

99%でなく100%、自分の気持ちを認めることができると、身体が緩みだしてくれる。なかなか100%に至るまでの道が簡単ではないのが今のところだけど、少しずつ、上手にそこへ行けるようになってきてるように思えています。

何をいけないと思い込んでいるかを見極めて、何を自分に禁止してるかを見極めて。何を理想だと思い込んでるかを見極めて。今がどんなにつらくても、どんなに理想から遠くても、それを「どうにかしたい」という気持ちに流されないで、そこにとどまって、ただ起きている現状を見て、それが今ここの空間・時間・関係性の全体の中にあることを見て、全部受け止める、そんな練習の繰り返し。。。

最初は身体的違和感や不快感があったときにこの練習をして、身体が勝手にどんどん緩んでいって(自分で止められないほどずっと続いたときもあって)びっくりしたけど、今は、感情レベルでの違和感と不快感にこの練習をするようになってきました。

で、よく、泣いてる。

そのたびに、大昔に起きた身の上の記憶がよみがえってきたりして、こんがらがった結び目が1つほぐれる感覚が。。

まだまだたくさん、こんがらがった結び目がいっぱいあることはなんとなくわかっています。

おもしろいのは、あんまりそういう過去の記憶とか、自分の感情に、どっぷり入っていっちゃうと(全体の中で見るかわりに、没入しちゃうと)、必ず(!)いまここの現実世界から知らせが降ってくることで。

天井からクモが1匹、シュタッと目の前の画面の上に飛び降りてきたこともあったし、お風呂の湯舟の中でそうなってたときは、お風呂の天井から水滴が1滴だけ、右肩に落ちて来て、ハッと我に帰ったり。

現実世界もとても雄弁です。感情も雄弁だけど。身体も雄弁だけど。

だからまだ信頼が根底から失われるってことにはなってなくて。。おかげさまだなーと思う。

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