生きものとしての、人のありようは。。
風が気持ちい日だったので、浜で少しだけ水筒コーヒー。とんびが水筒を食べ物と勘違いして、飛んできた。海を見ると、広やかな気持ちになる。狭いところをじっと見続けてた自分に気づけてありがたかった。。ちょっといろいろしんどいことがあって、心が重たくなってから特に。
浜はいいです。ただ何もしないでぼーっと座ってても誰からも怪しまれないし。タダだし。いつまでもいていいし。波音がずっとしてるし。
”北米最後の野生インディアン”、イシさんについての本を浜で読み返し。イシさんが亡くなったとき、親友だった白人の人が書いた追悼文が沁みた。「イシは常に真実である自然を知っていた。彼の性格は永遠に続くものであった。親切で、勇気があり、自制心も強かった。そして彼はすべてを奪われたにもかかわらず、その心にうらみはなかった。彼の魂は子供のそれであり、彼の精神は哲学者のそれであった」
すべてを奪われた、と言葉では簡単に言えてしまうけどほんとうに想像を絶するくらいのすべてなんだということを思うと、一貫して穏やかさとやさしさを体現し続けたイシさんが、すごい人格者のように思えてくる。。けど、ピダハンやヤノマミの人たちの記録や写真や映像から感じる存在の質にもやっぱり合い通じるものがあって、人はほんらいこういう生き物だったんじゃないか、という気がほんのりする。
そうだったらいいなと思う。マーティン・ルーサー・キングが言った、差別をする人はみんな病気なだけなんだ、という言葉が思い出されてくる。病気の人を責めたりはしないでしょう、いたわるでしょう、と。。。
でも、相手をいたわる行為には、なにが含まれてくるんだろう?と考えています。
自分が病だという自覚のない人からひどいことをされているとき(ひどいことをしてるという自覚が本人にないままに)、「あなたにそのようにされると、こちらは痛いんです」と事実を伝えることは、そこに含まれるんじゃないだろうか、と最近思う。
そうやって自然界というか地球は、私たち人間をいたわっているようにも思う。。。自覚を促してもらってるんじゃないかと。
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