2017.11.18

木の奥にある、木目

1週間ほど前だけど、トランプ氏来日関連のニュースを読んでいて、しみしみと暗い気持ちになっていって、あ、これはいかん、と思って立ち止まった。

自分にはマイクロサイズのちっさいことしかできないと痛感するこの頃で、せめて自分の灯りを暗くするのはやめないと、と思ったのでした。

Img_2807_2 Img_2812_2 それで、さじフェスでいただいた、スプン削り用のフックナイフに簡単な鞘をつくりました。ちょっと失敗した。けど使えないことないからよしとする。

自分のものづくりはこんなのばかし。。自分なりに完ぺきをめざして取り組むけど、いつもどこかにずっこけポイントが。でもずっこけてわかったことがいろいろあるし、そうやってやってくうちに少しずつは上達してるんだろうからよしとする!

先日中津川でミルクスツールの座面にしようとちまちま削って整形した桜の板材も、よくみたら小さい虫穴が端のほうにあった。。あららら。ひとまわり小さくなるけど、それもよし、と、そこのとこだけ割り落としました。割り落とした木っ端を見たら、スプーン削りたくなりました。(ミルクスツールをつくろうと決めたのも、(た)さんのお皿のための木取りで出た端材を見て、これ座面になるなーと思ったときで、わりといつもこうしていきあたりばったりに進む。。)。

Img_2795_2 これ桜だし、生木のうちにスプーン1本やってみよう、そうしよう、さじフェスでおそわったやり方のおさらいにもなるし、とナタで粗く整形してナイフでしあげてみた。ナタでの整形は不慣れだけど楽しかった。斧よりもコントロールしやすいかんじ。これはやってくとくせになるかも。。

Img_2797_2 しかし、スウェーデン風のデザインにしてみようとしたら、バランスがどうも妙になっちゃった。自分の感性とは違うデザインだからか、お手本をちゃんと見てないからか。。

それにしても欧米のスプーンはカーブがゆたかでグラマラスだな、と思う。日本の木のスプーンのあっさりした静かなデザインと比べると、ああ文化が違うんだなと思う。

Img_2855_2 柄には、くだんの極小の虫穴がふたつ、残ってたので、その穴を結ぶかたちでハートの模様を彫りました。浅い穴だったからこれで解決。

でも形は納得がいきません。いまひとつときめかない。。なにをどうしたらグラマーとあっさりの折り合いがうまくつくのか、それともそんなのよりもっと基本のところがちがうのか?うーむ。こんなことをあーだこーだ考えるのがまた楽しいって、変態だろか。。

* * *

その後、このとき割り落とした桜の木端のその2とその3で、小さいものもつくりました。ひとつはBarn the Spoonさんのデザインでかわいいな、と思っていたフェザースプーン。

Img_2887_2 Img_2888_2 Barnさんのオリジナルデザインでは柄の表側が羽根っぽくなってるのだけど、逆に柄の裏側を羽根っぽくさせてみたら、柄のおもてがわはうなぎねこのしっぽ風になりました。。。

Img_2869_2 Img_2872_2 木端のカタチのせいで柄の先端はだいぶん薄くなったのだけど、割ったままの木目に沿ってるので、繊維は全部通っているから、強度は大丈夫かな、どうかな。。。様子をみてみます。

フェザースプーンのカタチにはときめいたので、木端その3でもう1本つくろうと始めたのだけど。。。おさじのお皿部分をほりほりしてたら、深く掘りすぎて穴があいちゃった。。。ヨゲさんには、おさじのいちばん深いとこはむこうが透けるくらいうすくしたっていいんだよ、と教わっていたのだけど、さすがに穴があいてはどうしようもないです。Img_2892_2Img_2893_2

  柄のほうは、木目に従っていったらちょうどよくカーブのある羽根ふうになっていたので、お皿部分は削り落して、ブローチにすることにした。

Img_2902_2これからオイル仕上げして、ピンをつけてみる!

木のブローチは、こうやって偶然できる。。。前につくった、現在のお気に入りの木のブローチも、なにかつくった時に出た木端をなんとなくナイフで削っていて(ただ削るのが楽しくて)、そしたら節とそこをとりまく木目のカーブがどうみても靴下のかかとらへんにしか見えなくなって、そのまま靴下型に削ってブローチにしたのでした。

Img_1104 これはもう、わたしが靴下の形をつくったのでなくて、この木端のなかに靴下があった!という感じでした。ミケランジェロが彫刻をするときとおんなじです(ミケランジェロに失礼なくらい、規模が小さい&モチーフが生活じみているけれど(^_^;))。

でもこのブローチは、自分にとっては、木目に沿って削る楽しさを表している大事なブローチです。羽根ブローチも、やっぱり木目に沿った結果なので、やっぱり大事な象徴になるです。

* * *

そういえば、木目について、ちょっと前に書いてたのでした↓

こないだのさじフェスでお会いできた、スウェーデンの木工家ヨゲさんの、木との関わり方、伝統との関わり方、人との関わり方、がしみじみ好きだなーと思うのだけど、特に木との関わり方の部分では、やっぱり、木目に沿うという、あの部分が一番ぐっとくる。

イギリスのマイクさんに椅子づくりを教わったとき、一番心に残ったのもそこでした。

この、木目を断ち切らない、木目を活かすということろが、わたしの(限られた)理解では、グリーンウッドワークが普通の木工と違う一番大きなところ。

こちらから一方的に材に形を押し当てるのでなくて、材と交流しながら、形を決めていく。たとえばスプーンの首のカーブは、もとからそのようにカーブした枝を見つけて、それを材料とすることで実現していく。

繊維が断ち切られないで通っていれば、細く軽くしても強度はちゃんと出る。しなやかで強い、そういうふうになるところが、いつもいつも、ぐっときます。木ってほんとにすごい。

最近は、自分という人間の木目についても、考える。わたしがもし材だったら、すとんとまっすぐな木目の通った素直な材なんかではとうていなくて、ねじれがあって、節もいっぱいある、クセのある材だろな。。。

そういう私のままでも健やかにハッピーにいていいだろか、いられるだろか、と考えるとき、「こうあらねば」という自分像を自分に押し当ててきたことを思う。くせのある材なら、そのくせを活かしてく工夫こそが必要だったのに、みんなと同じまっすぐなものにならなくは、と自分なりに精いっぱい努力を重ねて耐えてきたところがあるような。。。

誰もがみんな、程度の差はあれ、入り組んだ木目を持っていて、それでもがんばってまっすぐなものになっているんだ、と深々と信じていた。みんなががんばれることなら、自分もがんばれるはず、と思ってきたし、この世界に、すとんとまっすぐな木目の通った材もある、という事実を心から信じてはいなかったのでした。。

だって、本当の樹木の材でも、外から見ただけでは木目の流れはわからないことが多いし。樹皮を剥いてみたり、割ってみたりして、はじめてわかったりするわけで。木の中には、外から見えないいろんな過去が形になって残っていて、それが木目を複雑にしていて、削っていく過程でそういうものに出くわしたりする。

(そういえば、坂田学さんが10年かけて完成させたアルバム「木の奥」、すばらしいです。相方の大好きなアルバムで、表題曲の「木の奥」もすばらしい。このあいだ、下北沢440で「Tree Octet」という、「木の奥」と「8人編成バンド」とを絶妙に掛け合わせたタイトルのライブがあって、仕事の修羅場だったけど駆けつけたら、ひさびさにめちゃくちゃ幸せになりました。ライブハウスから出たら、足の裏に3センチ厚くらいの空気の層ができていて、歩くとふわふわしして、完全に「できあがって」ました。ドラムたたきながらギターを弾く坂田さん、ステージど真ん中のドラムセットを7人が取り囲んで、なんとも楽しそうにみんなが演奏していて、最高でした。。)

でもでも!すとんとまっすぐな木目の材も、もちろんあって、樹種によってはそういう材のほうが多かったりもするわけで。。。

みんながみんなわたしのようではないらしい、という、こんな基本的なことを、この歳になって悟っているところです(汗)。もう無理強いはやめて自分の木目に沿って生きていきてくことを、自分に許して行ってはどうか、と思っているところで。。そのための工夫に努力を割いていきたいな、と、まっすぐになるために耐えたりがんばったりする方向で努力するのでなくて、と思っています。

そしたらもう少しハッピーにここにいられるようになるのかなー。

自分はここにいなくていいし、むしろいないほうがいい、いるだけで迷惑をかけている――だからマイナスがせめてゼロになるように、できることをなんとかやって貢献しなくちゃ、ベストを尽くさなくちゃ。。そういうデフォルトの感情サイクルが、変わっていくといいなあと思っています。

| | コメント (0)

2017.10.18

つれづれメモ

昨日夜、相方と歩いて25分ほどの投票所へ。夜の暗さが心地よくて目が休まりました。あわただしい日常のなか、こういう夜の散歩の時間、いいな、と思った。投票の後は久しぶりに地元の喫茶店でお夕飯たべた。

このところ夢が鮮明すぎて、起きぬけにどちらが現実だかわからない感じの毎日。

今朝の夢では、お世話になっている病院に行っていました。待合のろうかは気持ちの良い風が通り抜ける(現実の病院とはぜんぜん違ったけど、ここはそこの病院だということに夢ではなってた)。茶色のふかふかのじゅうたんがひいてあって、小さな鳥が、なぜが4つ足歩行をして、ねころぶわたしのすぐ横をたたーっと通り抜けていった。

やっぱり4つ足歩行のほうが早く進むなあ。人間は2足歩行になっちゃったからなあ、と思ってた。。。

さまざまな生き物が行き来できるこのろうかの待合室は、よいところで、ごろ寝してもよいことになっていて、なごんだ。

しかし病院に来たはいいけど、かかりつけの先生には、前回来た時に、なんで来たの?もう来なくていいんだよ、というようなニュアンスのことを告げられていたから、また来ちゃった自分を持てあましていました。同じ科の別の先生に受診したらいいかな、とかいろいろまごまご考えてた、夢の中のわたし。

たぶん、自分としては主観的にはヘルプを求めている、でも客観的にはわたしはぜんぜんだいじょうぶなのだ、というのが、最近の現状なのだと思う。。

生き物との交流が足りてない、というのもありそうです。

仕事がたくさんあって、季節の変わり目でもあるから家の中のこともいろいろ宿題がたまっていて。焦る。。

選挙のことも気になるし(とはいっても、これまでになく落ち着いて静かに居られてるのだけど)。

自分をもう少し大切にしたいと思うようになってきました。これまでも自分勝手に生きてきちゃったのに何言ってるんだ、という感じだけれど。。。

つい最近の、世界のありようについての、ある気づきは、まさか、という気持ちで、かなり地盤がゆすぶられたみたいでした。頭が物理的にくらくらした。。。まだこのアップデートされた現実になじみきれてない感じ。

このとこあったかいお風呂がなによりの幸せです。湯船で毎回居眠り。。

| | コメント (0)

2017.10.14

流れ星が

Img_2436 さじフェスから帰ってきて、2日ほど、ほけーっとしていました。

5月のアレクサンダーテクニークの合宿の後、しばらく使い物にならなくなった自分も思い出してしまって、さじフェスが終わってすぐ次のことができる相方や知り合いのみなさんにくらべて、自分はなんでこうなっちゃうんだ、と情けない気持ちに苛まれてました。

5月のときは120人ほど、今回は50人ほどの場だったけども、大人数が集まる場所への苦手感は自覚してたので、なるべく疲れ果ててしまないように、意識的に休むことを考えつつ過ごしたつもりでした。それでもやっぱり今回も、いっぱいいっぱいになってしまった。

最終日の夜、相方と二人きりになって電車に乗っていたら、グリーンウッドワーク関連イベントの帰り道にいつもやってくる、自分の不器用さ・作業の遅さについての悲しみが、また、どどーっとやってきました。

それに打ちのめされつつ、長良川鉄道の駅のホームがそのまま入口になってる温泉に入りにいきました。

露天風呂の湯船につかってぼうっと、ものづくりのいろんなスタンスについて考えて、木工家や職人とはまた違うものづくりのスタンスもあることを思い出してたら、スーッと、流れ星が、天頂からななめ45度くらいまで、長い尾を引いて流れていきました。

びっくりした。と、同時に、初めてグリーンウッドワークでのものづくりを教わった、マイクさんの森での日々でも、最終日の夜、、森の縁にある広い原っぱでに出て、ひとりで夜空を見上げてたときに、流れ星がひとつ流れたこと、思い出しました。

あの時も、今回も、不器用な自分に場違い感を感じてたけど、星が流れた瞬間に思ってた、「まずはやってみる」「自分なりに工夫していく」「とにかくやり続けていく」というスタンスの人からはやっぱり元気をもらえるなあと思いました。

もちろん、木工のように刃物などの道具を使う手仕事だと、道具の使い方はやっぱりちゃんと教わることが大事だと今回もしみじみ体感しました。体をどう使って刃物を支えるか、材を支えるか、どう刃物を使いこなすかによって、まるで世界が違ってくるんだなあ、と。。。

だからちゃんと教わって習うことの意味はある。。のだけど、なんというか、それと職人魂とは、別物だと感じていて、職人魂に触れると、なぜか自分はものづくりにかかわっていてはいけないような気分になるのが、興味深い。。

「いいものをつくれる」技術がないと、つくる資格がないかのような気分、というか。。。

開き直って、しろうと魂で好き勝手にやっていこう、と思うのだけれども。というか、わたしにできるのは所詮それしかなくて、なのでこのブログでグリーンウッドワークについてこれまでもいくつか書いてるけど、「読まれる方は、これはわたしの好き勝手バージョンの手探りのグリーンウッドワークであることを、踏まえておいてほしいです」とわざわざ明記したくなるのだけれど。

Img_2433 でもそもそも、グリーンウッドワークはスウェーデンのslöjdのように生活道具を身の回りの森の恵みで自分でつくる、そういうたしなみのような、万人に開かれた営みだと思ってきていて、だから別に職人さんのようになれないからといって、職人さんを目指せないからといって、やってちゃいけないわけじゃないね、と思ってもいて。

なのにこの「場違い感」や「人並みにできないことの悲しみ」に毎回こんなにゆすぶられるのはなんなんだーと思いつつ、デンマークの心理療法士の方が書いたHSPと呼ばれる資質の人々についての本を読んでいたら、そういう人が「過度に刺激を受けたときにするお勧めの活動」のリストの中に「彫刻を彫る」という項目があって、目にしたとたんにどっと涙があふれてきました。

そうか、なんだかしらないけど木削りをしたくてしょうがないのは、そういう理由だったのか。。?と気付かされた。

自分が大勢の人の中にいるとき、いろんな物音や気配の渦中にいるとき、時間的に焦って作業をしているときに、おもいのほか憔悴しているらしいこと。。木削りや手仕事は、自分にとっては、コーピングの手段だったらしいこと。。。

たすけてもらってきたのだったかー、木削りには。

知らない街に引っ越して大学の寮に入ったばかりのとき、なじめなくて、中華街で衝動的に彫刻刀を買って、近くの工事現場に落ちてた木端を拾ってきて、夜な夜なわけのわからないオブジェを削っていた自分を思い返すと、まさにそうだったのかもしれなかった。。。

ただ木を削る、それがやりたかっただけだった?その言い訳として、生活に役立つものをつくろうとしてきた?

ただ海に入って浮かんでいたくて、その言い訳としてサーフィンをやろうとしたみたいに?

ただ木に登りたくて、その言い訳として、高枝の剪定をするときみたいに?

言い訳がなんで必要なんだ、と思うけど、意味のあること・意義のあること・生産的なことをしてないといけない、と思ってるんですね。大人として、日常の時間を割くならば、そうでないと、と。

ふと、先日たずねた鹿児島のしょうぶ学園(知的しょうがいのある方たちの支援施設)で、木工をしている利用者の方々のこと、思い出しました。鑿と材を渡して、お皿を彫ってもらおうとすると、どんどんどんどん彫り進めて底に穴があいてしまうまで止まらなかったりする、そして穴があくとご本人はうれしそうにしていたりする、と聞きました。

一心に彫り進める、その活動に「快」がある。。活動そのものに意味があって、結果としてお皿が完成するかどうかは、活動そのものにくらべたら二次的なことだという境地。。

そして、こういうものづくりのベクトルもあってよいこと、こうやっていくなかで結果としてできあがった「なにか」は、また別の意味で「いいもの」になる、工夫次第で「すごくすてきなもの」になることを、しょうぶ学園の活動からはびしびし感じます。

思い出すと、元気が出てくる。ありがとうの気持ちです。

保存

保存

保存

保存

| | コメント (0)

2017.10.05

おかしなぬりえ

<おかしなぬりえ>

わたしのカタチ
わたしの過去のカタチ

トレーシングペーパにざざっと写し取られて
色を塗られてしまうってあるんだなあ

思いもしない色を塗られてびっくり

でもそういう自分も確かにいたのかも
なんて思い始めて

おかしなぬりえを
じいっと眺める

違和感をずるずるひきずりながら
この違和感は大事だと思いながら。

でもほんとうは
ほんとうにほんとうは

よその人が知ってるんじゃなくて

わたしが知ってるんだよな!
わたしのトゥルーカラー

心通わせてきてくれた
家族も知ってる

ねこのにゃみちゃんも知ってる

これはただのぬりえ。

違和感を感じるものには
気が引かれるけど

「ちがう」とわかったらもう
じいっと眺めてなくてよかったんだ

ふっと風にのせてしまえばいいことだった

ちがうよ、おかしなの描いたねえって
笑ってればいいことだった

おかしなぬりえに
まじめに接するのが礼儀と思っちゃって
埋没しちゃってたな

さわやかなとこへ出てこよう
正気にもどろう

さわやかにくつろいで
刻一刻変わりゆく自分でいることが
わたしにできるいちばんのことだって

だんだんわかりだしてるんだ

| | コメント (0)

2017.09.07

T2/満月の朝

21367034_10212459892146409_87881398 少し肌寒くなってくると、マヤナッツがしみじみおいしくなる〜。。◯  徹夜仕事のあとにはとくに最高においしいす。ありがとうマヤナッツ。。

ひさかたぶりに完全徹夜。。十数時間のマラソン集中で、ルビの振り間違いとかありそうでこわい、と思いつつ、ひとまず、手を離れたものはリリース。。。です。

全力出しきる、マラソン走りきる、みたいな仕事の仕方はやっぱりよくないのはわかってるのだけど、締め切りの都合で今回は仕方なかったのでした(そして明日からキャンプに行きたい、という自分の予定も大切にしたくて)。

こういう無理をしないようになってから安定してきてたのにーと思う一方で、最近本気を出すってこともしてなかったから、うだうだ感に覆われていたのかもしれないよ?とも思ったりもする。

冥王星をぐいと動かすようなことを、たまにしないと、わたしの場合はバックラッシュが来るんじゃないか、という仮説があって。。。ここのところはまだまだ検証中です。

冥王星をぐいと動かすようなのの対局にある、あの、花がひらくときのようなエネルギー、筋力とかでないもっと循環する生体能力みたいなあの力に、ものすごくあこがれを持ちつつ。。。

バランスとバライエティをこう、とおくから眺めているようなふうです。

とりあえず、すごくしょうもないことをいつもいっぱい考えているから、それはもっと減らしてもいいように思えています。

”ぼんやり力”を高めることで元気にすごせます、と野口整体のせんせいに言われてから、ときどきそれは心がけてはいる。

さてはて。。

ここさいきんのなぐり書き。

+ + +

<  T2 

今日は風がないな
しっとりした空気
雲にミュートされた午前の薄光に
植物たちの緑、黄緑がやけにあざやかだな

急に終わったとおぼしき夏を懐かしみつつ
長袖シャツを着て仕事に向かう

ずっと調子が上がらないままの日々

すべては精神状態ひとつ、とわかっていても
翻弄されつづけてる

うまく自分をきりもりできずにいてねえ

ささいなことをもっと気にしないようになりたいな

そのためにはもっと、「集中」の濃度を上げることかな
「夢中」になるくらいまでに?

でも「夢中」のあとにはまた「霧中」になって
そうやって行ったり来たりを繰り返すって知ってる

できればもっとマイルドに
ワイルドでなくマイルドに
静かにくつろいで、冴えている、

そんな感じを増やしたいんだけど
自分の体質向きじゃないのかな

ささいなことを気にしたくないけど
ささいなことこそ大事だって予感もいつだってある

生まれたときから体の中に持っているT

2つのものが
折り合いをつけるなんてまっぴらごめん
と言っている

2つは真逆に向かってるんでなくて
お互いに対してちょうど90度
それぞれ、わが道を進もうとするだけで
相手に横槍を入れてしまう

前へ走り出そうとするときに横にはじかれる
ってきついんだよね

だから線でなくて面の意識
ベクトルでなくて場の意識
個々の視点を離れてさ
ふわっと空に上がって
二乗にした場のほうに
ピントを合わせられたらなあ

線としての前進よりも
面の広がりのほうに
よろこびを覚えていられたらなあ

成長神話の世の中にいても
場のふくよかさにくつろいでいられたらなあ

(9月4日)

+ + +

<満月の朝>

今朝目覚めて、ああ
なんて頭の中が被害妄想でいっぱい。。
と我にかえっちゃった

それらのあいだにぎゅぎゅっと挟まれているのってなんだ
ゴミ溜めの中で暮らしてるような感じ?

足の踏み場もなくて不自由してるのに
どうしていっこうに片づけようとしてこなかったろうね。。

この風通しの悪さが「ふつう」だと
思ってきたんだなあ、長いこと

若いころの自分はもうほんとうに四六時中緊張していて
ゆとりもよゆうもなかったし

(今だってさしてゆとりもよゆうもないけれど)

なかなかたいへんだったねえ

花 ひらく花

花がひらくときのような、繊細で前向きなエネルギー

ひらきつづけているときのような、繊細なゆるぎなさ

そういうデリケートな努力で
世界と関わっていけたらいいな

歯をくいしばって耐えるのは
もうだいぶんやってきたので、for a changeで

ほんとうに、ここから
このこころのそこから



自分のことばかりで手一杯て
ぶざまだな、と思いつつ
まあまあ、今の時期は、と
やんわりなぐさめてる



ゆっくり
48時間くらいかけて降ってくる
目に見えないくらい小さい透明の粒

いつも降らせてくれていて
ありがとう

(9月6日満月後)

保存

| | コメント (0)

2017.08.30

キャッチ&リリース(気づく&流す)/生木で子供椅子(1)

おととい、乗り継ぎの電車をまっている夕暮れ前のホームで、何か急に意識にめまいのようなものが起きて、すべてをやめてしまったらいいんだなというような感覚が来た。

で、今朝も洗濯をなんとか終えたあと、またそのような感じになったので、書いてみよう、としてみたら、つらつらと出てきた自分の声は、最後には

もうだれのためにも
じぶんのためにも
なんのためにも
なんにもしたくないんだ

という「まとめ」へと終息していって、大「努力放棄宣言」になってた。。

そんなにふだん努力しまくりなのかー?と、自分で自分につっこみを入れつつ。この声が出てきたらぐらんぐらんとなって、からだが重たーくなってしまって、寝る以外どうしようもできなくなって、寝ました。今日のやらねばならぬことリストを全放棄して。。

夕方起きて、少し人間らしさ?を取り戻しているところ。少し頭痛がありつつ。。

でもこうやってすぐここに書いたりできてるこの頃は、うんとたくましくなっているというか、行ったり来たりがうまく(?)なってきたような。。

「来るものは拒まず、去るものは追わず」的に、おとずれる体験にこだわりすぎずにいることと、記録はとっておくこと(後で季節ごとにどんな感じだったかがわかるように)を、続けていければ、よいのかなと思う。。

* * *

グリーンウッドワークのことでもメモしておこう。ちょっとでも明るいほうを向こう。

「猫の額庭」の栴檀が、おとなりさんちにつうじる電線に枝がひっかかる高さまで伸びて、台風の前にはあの枝を切らねば、と思ってたのだけど、おとなりさんに会ったら「切ってね♪」とさわやかに言われたので、半月前の小雨の日に、剪定しました。

はしごをのばして、幹にかけて、幹の枝分かれしているとこに登って切りました。剪定は大人が大きな顔をして木のぼりできる、唯一の(?)チャンス。幹に抱きついたりもできるし。うれしかったです。

通りがかった郵便屋さんに「雨の中、ごくろうさまですね」と声までかけてもらって。(ごくろうさまなのは郵便屋さんのほうなのに)

この時期に剪定した生木が、グリーンウッドワークに向くかどうかな、と疑問はあったのだけど、立派に育った枝を見ていたら、無駄にしたくない気持ちがムクムクと。

で、樹液が動いてる時期の生木を使う実験として、やってみるかーと思いました。

8月24日
Img_1929Img_1930子供椅子はどうかな、と思って、まずはプランニング。パーツの切り出しサイズ(必要な幹の太さ&長さ)を書き出しました。

使えそうな枝をみつくろって、室内に搬入(それまでは外の石の上に並べて保管しておいた)。

どこのパーツをどの枝からとるかをだいたい決めて、クレヨンで印。
Img_1932
8月25日
パーツを削る前に、刃物の砥ぎ。ドローナイフ(銑)と、ついでにモーラナイフも。ドローナイフの砥ぎには、グリーンウッドワーク研究所の加藤さんが開発された、ドローナイフ専用の補助具を初めて使ってみた。すばらしかった! 砥ぎがぜんぜんへたっぴなわたしでも、角度がびしっと決まるので、なんとかできました。

この砥ぎ補助具は、森林文化アカデミーでの「グリーンウッドワーク指導者養成講座」を修了したお祝いの記念品として、講師のおふたりからいただいたものです。感謝しています。

8月27日
Img_1961 Img_1942_2Img_1960 子供椅子のパーツ(貫と座枠)の削り出し。削るときのこの感触、ほんとうにひさしぶりでした。ラジオを聞きつつ作業。

ノコで切って、フロー(マンリキ)で割って、小口に削り目安サイズを墨付けしたら、削り馬へ。銑で削るこの作業が好きです。

わたしの銑はちょっとおおぶりで重たいので、銑の重さにまかせて削る感じ。それも気持ちいいです。

銑で削り終えたら、パーツの長さを再チェックして、長すぎたらノコで切って。

両端にテノン(ホゾ)をつけます。鉛筆削りのおばけみたいなので。

ここまでを1つのパーツごとに一気に。順繰りにパーツを削り出していきました。

8月28日
Img_1963_2 この日は背板2枚を削りました。これで横向きのパーツは勢ぞろい。

これをゆっくり、カラカラになるまで、乾燥させます(貫の一部は芯持ちの枝をつかってみたので、急激な乾燥は割れのもと)。

次は、前の脚、後ろの脚を削る作業だけど、これらのパーツは、他のパーツと組むときの乾き具合が大事なので(湿りすぎず、乾きすぎずにしたい)、タイミングを見ているところです。やっぱりせっかく生木でやるので、釘なし・糊なしで組みたいので。。

Img_1962 ひさびさの木削りで、けずりくずの山が目にうれしくて、なかなか掃除する気になりません。やっぱりこれがだいすきみたい。

汗をたらりんとしつつ暑い中で削るのもいいですね。。

夏の材だけどうまくいくといいなあ。

保存

| | コメント (0)

2017.08.27

海あそび・2/平成の装い

<海あそび・2>

Img_1039_1 

海は水着を着たまま行く
浜についたらすぐ波間へ

今日も海水浴です

ほんとにお風呂に入っているみたい
どこまでも広がる大きなお風呂

波がおだやかだったら
ひたすら波間に寝転がる
仰向いてプカプカ

入道雲ととんびを見上げて
太陽を全身にもらうんです


海はみんなとわけっこする
波うちぎわから波間まで

今日も海水浴です

一緒にお風呂に入っているみたい
波乗りのウミネコ、跳ねるお魚

すっかり涼しくなったら
のんびり砂浜に寝転がる
仰向いてウトウト

帽子を顔にのっけておいて
そよ風を全身にもらうんです

Img_1037_1

着替えはちゃっと浜でする
砂が熱かったらすぐ水辺へ

今日も海水浴です

一緒にお風呂に入ったときみたい
ほら、とパンツを見せてくれる友

うっかり見せてもらったら
フルーツみたいなすこやかさ
宙を見てクスクス

足を砂だらけにしたままで
友情を全身にもらうんです

(8月21日、鵠沼海岸、(ゆ)ちゃん、(じゅ)ちゃんと)

+ + +

<平成の装い>

Img_1824_1

ああ。こうやって時代から
あぶれていくんだろうな

と、やけにずしりとした実感を持った

世の中の流れ、のようなものの行く先を見ていて

ああ。ついていけない
ついていく意味がわからない

資本主義の果て?
愛の定義の謎が深まる

すべてがエクスチェンジの上で成り立つ世界

それは実像に近いんだろう、きっと

でも最近よく視界がかすむ

残像のようなものが見えていて
そのダブルに重なっているもう1つの輪郭と
この世の輪郭とのあいだの
ぼんやりぼやけた領域

そこに憩う。。。

あの隙間

有元利夫さんの絵に描き込んであった

自由に泳げた

あの隙間


21世紀かあ

光の明滅を眺めているだけのこの頃
幸せの定義の果てしなさに
声をなくしていて

切り刻まれた現実で
消化不良を起こして

商品のようにきれいに並ぶ
他人の記憶の色鮮やかさに
感心することしきり

カラフルなのが好きだし
軽やかなのも好き

なのに自分はどんどんあおざめて
どんどん重たくなってくみたい

時代の空気に浮かんでいようと
なるべく軽やかでいようと
明るいほうを向くのだけど

じわじわわけがわからなくなってくる

「頭で考えるのをやめて、感じるんだよ」
というアドバイスをありがたくもらって
ぼんやりと思考を停止する

そうやってさらに暗く影みたいにあおざめて

最後の悪あがきみたいに
なぐり書きを書き連ねるだけ

キラキラ明滅する四角い世界に
弱い毒をたれ流すだけ

この全部から離れたところに
手つかずの健やかさがあることを知りながら

限界がきしむ音を聞きながら
平成を装ってるだけ

保存

保存

保存

| | コメント (0)

2017.08.03

それぞれの夏

Img_1828「猫の額庭」のヒメヒマワリの、今年の一番花だった花が咲き終わりました。写真の一番上の茶色く枯れたのがそれ。6月15日に咲いたから、1月半のあいだずっと咲いてたんだ。。猛暑の日も、豪雨の日も、しばらく雨のなかった日々も。なんて強いんだろう。

今は後から咲いてきた5番花以降の花たちが元気に咲いています。リレーのようにしてこうして秋まで咲かせ続けてくれる。

この夏は、「猫の額庭」に水やりを一切してなくて、雨だけでやっていってもらっているのだけど、それでも元気でこうして咲いて、花のたくましさって半端ないです。

冬にはいったん姿を消して、春になると毎年あたらしく地面から出てきて、夏に黄色い花をつける。枯れ姿もかっこいい。わたしがここに越してくるより前からここに生きてきた、先住植物です。

何年も前に、この花にすごくなぐさめてもらったときのことも、毎年思い出します。

+ + +

Kakigori_2 昨日は遠方のともだちが、ひさしぶりにはるばる会いにきてくれて、正当な夏休みみたいな午後を過ごしました。みんなで駅から海まで歩いて、波打ち際を楽しんで(貝の砂もぐりも眺めて)、帰り道に天然氷のかき氷屋さんでふわふわのかき氷を食べました。いちごソースがおいしかった。。。

5歳の(よ)くんも来てくれて、おみやげに(ヨ)さんが持参した紙相撲をかき氷屋さんのテーブルに広げて、みんなでトントンやった。曇天で夕方で入店待ちのお客さんが並んでなかったので、奇跡的にゆっくり遊んだりできました。楽しかったな。。

昨日は台風が遠くに来ているせいで、すでに波がいつもより高くなっていて、残念ながら海水浴は無理だったけど、(よ)くんは波打ち際ではしゃいで走りまわって、ゆうに50メートル分くらいは走ってた。。。小さな体から発せられるエネルギーははちきれんばかりで、見ているだけで爽快でした。にんげんにはこんなにすごいエネルギーがあるんだなあ、と実感した。これはほんとに、すごいことだよ、と思う。

海からかき氷やさんまで歩くあいだも、ただ「歩く」のでなくて、くるくる回りながら歩いたり、盆踊りみたいなのを踊りながら(しかも後ろ向きに)歩いたりする(よ)くんは、実にクリエイティブ。自分全部を注ぎ込んで楽しんでたように見えた。

この5年の年月、彼の育ちのプロセスの相棒となってきた(な)さんも、実にかっこいいなあと思いました。体力のいることだし、特に体調が変動しやすい人には(そうでなくても)大変なときがいっぱいあるだろし。。ほんとに尊いことです。

+ + +

Img_1834 さて、アリたちの夏休みも、すこやかに(?)続いているもよう。今日も3、4匹が窓辺の”別荘”に遊びに来ています。

以下、”別荘”の解説をすると。。。

うちの家は古い木造で、小さい生き物が出入りできるすきまはいっぱいあって、毎年初夏にはアリたちがいっぱいキッチンのはちみつの瓶とかに巡礼しだすのだけど、不思議と今年はキッチンに来なかった。

Img_1751 来ないなーと思ってたら、今年はリビングのほうに、巡礼の道ができあがっていました。窓辺に置いてある、少し前のクリスマスに相方にプレゼントした、白樺の樹皮でつくったおうち。そこの煙突に、いただきもののチュッパチャップスを立ててあったんだけど(煙突から出る煙っぽかったから)、このおうち(特にチュッパチャップス部分)が、今年のアリたちに好評のデスティネーションになりました。

しばらく前まで、富士登山の人たちみたいに、ぞろぞろ列をなして来ていた。窓の縁のところをずーっと行くので、人に踏まれたり家具につぶされたりする心配もないから、静観していたら、だんだんブームが静まっていって、訪問者数が減ってきて、最近は、たまーに、ぽつぽつと、1日に数匹くらい来ています。

そんなに混雑しなくなって、ほどよいお出かけ先になっているもよう。

生き物それぞれにとっての夏の日々。。。セミもようやく元気に鳴き出しているし、いつもこの季節に姿を見せるカナヘビの家族も、健在です。ありがたいことだと感じています。







保存

| | コメント (0)

2017.07.28

魂の食べ物

本日は夕方に仕事の納品が完了!ちょっとストイックにがんばったので、ごほうびに佐野元春さんの新譜をかけています。「MANIJU」。裏誕生日おめでとうといって相方がサプライズでくれました。裏誕生日プレゼントって初めてもらいました。うれしい :)

コヨーテバンド、たまりません。。。リズムセクションといいギターといい鍵盤といい。。うう。

魂の食べ物を、いっぱいいただいてるようなこのころで。ほんとにおかげさまです。

0006_xlarge こないだ行った坂口恭平さんの個展は、特にすごく元気のもとになっていて。おとといまたお邪魔して、少しのあいだ絵を見せていただきながらうたを聴かせていただいて、また充填してきた感じで、おかげさまで、少し前のわたしならすぐぐらんとなってたような知らせを聞いても、芯から揺らぐことなく居られています。ほんとにありがたい。。

Img_1777写真3枚は、2度目に行ってやっぱり気になった坂口さんの絵たちの一部。ほかにも1ダースほど、お気に入りが。。。絵も好きなように写真撮っていいし、うたも録音して楽しんでいい、と言ってくださって、なんかほんとにすごい。。しあわせです。

0009_xlarge 個展は30日までやってます、新橋キュレーターズキューブ。買った人はその場で持ち帰れる、というすごい個展。。。持ち帰られてもまだあふれるほど絵があって。

なんと、相方は2度目の訪問で坂口さんの絵を、買ってしまいました!絵を買うって、相方にとって初めてのこと(私にとってももちろんで、わが家にとって今年の一大ニュース。。!)。相方は帰り道、満面の笑顔で「大きな買い物をしたのに、ぜんぜん後悔がないよ、うれしいばっかり」と言いました。いつもは大きな買い物をすると、後でちょっと後悔するとかいろいろあるらしいのだけど、今回はそれがぜんぜんない、と。

とにかくうれしそうにおゆうはんを食べていました。そして新橋から東京駅まで、絵を抱えて一緒に夜道を散歩しました。皇居のお堀のわきをずーっと、夜に歩いた、初めて。涼しい夜で、とてもピースフルでした。車は横でいっぱい走ってるのに、静かでした。

絵を買う、という、そんな余裕がわが家の家計にあったっけ?と思うのだけど、今回改めて、これは家計とは直接関係ないんだと思い至りました。

というのも、今回のことのおかげで、今年の1月に旅立った、相方のお父さんについて、新事実がわかったのでした。相方のお父さんは、絵が好きで、家の中の壁の絵やタペストリーを季節ごとに掛け替えていたのもお父さんだし、書斎の扉にはいつも絵の切り抜きが貼り付けてありました(これもそのときどきの、好きな絵を貼っていて、かなりの頻度で入れ替わっていました)。

つつましい生活をしてた方だったから、複写や切り抜きで楽しんでらしたんだと思ってたけど、実は若いうちから思い切って絵を買ったりしていたことがこのたび判明。しかも1点じゃないらしかった。。

そして相方の母方のおばあちゃんに至っては、好きなある画家の絵をいくつも買って、孫1人1人に残してくださっていて。こちらのおばあちゃんは、夫をはやくに戦争で亡くして、3人の子をひとりで育ててこられて、生活はぜんぜん楽なんかじゃなかったのだけど、子供たちが巣立った晩年には、民藝の生活道具や絵にたくさん気持ちを注いだようでした。生きておられたら、会いに行きたかった。。

そんなわけで、アートを買うのはお金持ちの人、と思ってたのに、ぜんぜんそうじゃない例が、身内に2人もいたのでした。。。

そして、わたしの家系は違うなー、と思ったけれど、考えてみたら、ひいおじいちゃんが一枚岩をでんと置いて墓石としていたうちのお墓の一角には、長いこと、親類縁者でもなんでもないある画家の人のお墓が入っていたのでした。

わたしのひいおじちゃんは、それこそ全然お金のない人だったみたいで、服も夏の着物1枚と冬の着物1枚しか持ってなくて、ふびんに思った人が着物をくれたりするほどで、でも着物を貰ったらすぐさま質屋で換金してそのお金でほしかった本を買ってしまったと、本人が書き残した文章にありました。。。そんなだったから、その画家の人の絵を買ったりはできなかったろうと思われるけど、一緒のお墓にするほど仲が良かったらしかった。

前の世代から引き継いでいるドリーミングって、やっぱりあるのかな。。と思ったりしています。そしてそれは家計とは関係ないことがらなんだなあ、と。。

食べていくために家計のやりくりは必要だけれど、魂の食べ物のためにも必要である、というか?

そうだ、そういえば、坂口さんの絵を買うときに、相方が予期せぬことを口走り、そのおかげでわたしも少し坂口さんとお話させてもらえたんだけれど(そもそも尊敬する人と話すのが大変な性質なうえに、いきなりのことで動揺してさらに大変だったんだけど)、そのときにいきなり坂口さんに「詩、書きそう」と言われ。。そのときははてなマークが出まくったけれど、あとになって、相方が「だって、詩集、くれたよね」と言いだして、付き合う前に相方にあげた贈り物が自作の詩集だったことを思い出し。。。さらに、このブログの最初のエントリが詩みたいなものだったことも思い出しました。

それでかなり昔のブログを読み返すことになって、そしたら、10年前にアップしてたブログの中に、魂の食べ物についてのこと、書いてありました。正確には読書感想文(?)なんだけれど、薔薇の芳香は魂の食べ物になるらしいという話で、「からだに食べ物が必要なように、魂には精気が必要で、その精気は、芸術(特に音楽)や芳香や光として摂取できる」と考えていた昔の人のことを書いていた。

魂の食べ物のことも、詩のことも、すっかり忘れていました。(詩のことは、とくにこっぱずかしさから自分の意識にも上げないようにしていたもよう)。

坂口さん、思い出させてくれて、ありがとう。。お金なくても、はずかしくても、自分にとっては大事なことなんだと、思い始められそうな気がしています。向こう側にいる、義理のおとうさんにとっても、おばあちゃんにとっても、ひいおじいちゃんにとっても、大事なことだったんだと、思い出せてよかった。

保存

保存

保存

保存

保存

保存

保存

保存

保存

保存

保存

保存

| | コメント (2)

2017.07.23

獅子座新月間際のわわわ

幸せすぎた昨日でした。。。

久しぶりに髪を切りに行きました。切っていただいてるあいだ、頭をかすめていたのは、きつかった2カ月間のこと。終わって「これだけ切りましたよ」と見せていただいた髪の束を見て、ああ、よかった、と思った。髪の中を風が通るさわやかさを体感しつつ歩きました。

そのあと寄った本屋さんで、以前から目にするたびに惹かれていたdesignsix Londonのピアスを見かけて。毎回、見かけるとときめくけど、必要ないし、いずれ用なしにしてしまうだろうし、地球にとってよくないしと結論していたのに、今回はホワイトのNovaピアスを衝動買い。その場でつけました。ピアスはここ20年近くは冠婚葬祭のときにしかつけることがなくなってたのに。どうしたこと。。。

そして夕方、相方と合流して坂口恭平さんの個展Nest of Thinkへ。もうこれがとんでもなく、幸せなひとときでした。

0003_xlarge 広いローテーブルに小さな立体作品が朴訥に並んでいる写真を、坂口さんのタイムラインで見て、あ、この立体たちの後ろ姿がきっとやばい、見たい、と思って行ったんだけど、わたしの想像を軽やかに上回り、あらゆる意味で「個展」の概念をふっとばす個展でした。

立体作品のほかに、窓や壁に数点貼ってあったけれど、そのほかに500枚の絵がそこここに束にして置いてあって、各自手袋をはめてその束を見ていくスタイル!

しかもその間、坂口さんはBGMと称して、ギターを弾いて歌ってくださっていて!そのうたが、BGMなんてとんでもないほどのマジうたで。

「休憩しまーす」とうたを中断すると、ご自身の選曲の音楽をスピーカーから結構な音量で流してくださって!

ずっと坂口さんがその場にいて、あれこれ話したり歌ったりして、曲かけたりしてくれていて、もう彼の存在感そのものを含むあの場全体を、どうぞ、してもらってる感じでした。

* *これから行こうかなって思ってる方は以下は読まずにどうぞ!30日までやってます* *

ビジュアルと音楽と立体とか、作家と作品とか、作家とオーディエンスとか、アートと生活とか、ぜんぜん切り分けらてなかった。

0013_xlarge大音量で音楽が流れてる個展、作家さんがライブしてくれてる中で原画の束をひたすら繰っていく個展って、体験したことないよ。。!

1枚1枚を手に取っているときに、「片づけの魔法」のこんまりさんが、本の整理をするときにとにかく本棚から全部出して、1冊1冊を(読まずに)手に取って、ときめくかどうかをチェックすること、と提唱してたこと、思い出しました。触角が感知することの正確さ。。

坂口さんは新しく誰かが入ってくると、元気に「いらっしゃいませ!」と言い、今日のクローズの時間が迫ってくると「そろそろタイムセールですよ!好きなの選んじゃって、もう言い値でいいよ、商談しましょう」と。まるで市場のようでした。。。

ああ、生ものを売っている、という意味では、まさしく市場だったのだなあ、とも思う。

作品はわたしには手の届かないお値段だったから、見るだけと思っていました(タダでこんなにいいおもいをしていいのかなとも思ったけど)。言い値でいいよ、と言われて、え、もしかして、とも思い始たけど、惹かれるもの、心がぴぴぴんと反応するものが、いっぱいありすぎて、選ぶとかとうていできなくて、結局どうしたらいいかわからなくなって終了。。。

音楽を聴きながら1点1点を見させていただいている時間は、ちょっとした変性意識状態だったもよう。後でおゆうはんを食べてたときに、通常の意識まで降りてきて、「あー、わたし緊張してたんだなー」と気付いたけど、正確にいうと、興奮していたもよう。

絵のかわりに、相方と一緒に画集を買いました。そしたらサインをしてくださって。そのときに、相方がほしがって、でも迷って決められなかった2枚の作品のモチーフを、ペンでさらりと描き添えてくださいました。やさしい。。

帰りの電車と、家についてからおふとんの中で、画集をめくっていました。この多産なワールド。。

坂口さんのドローイングを初めて見たとき、うわあ、過剰だー、とその過剰さに圧倒されたし惹かれました。今回の個展では、500枚の作品にはわりと余白がいっぱいあるものが多くて、予想外だったのだけど、これだけ余白を含んだものを描くと、今度は作品の点数が過剰になるんだなあ。。。彼はほんとうに、出し惜しみしない。。。というか惜しむどころか、出し切らないとバランスをとれないんだろうと想像する。

スタイルも画材も、モチーフも、自由で多彩で。坂口さんの歌声にそっくりだ、と思ったものもあった(当然か)。

芸術が絵画、彫刻、音楽、演劇、舞踊、などと分化する前の、大元のまとまりのエネルギーと一緒にいる人。自由度がめちゃくちゃ高い人。好きすぎる。同時代に生きていられてよかったって思う。

* * *

個展のタイトルはNest of Thinkだったけど、アレクサンダーテクニークでthinkする、ということについてこのとこぼんやり思ってたことが、なんだかばーんと示されたようでもありました。こういうthinkっていうか、これがthinkだ、ということ。そうだそうだ、と。

保存

保存

| | コメント (0)

より以前の記事一覧