2015.10.30

実りの秋に、透明な循環について考えた

20151030_112145 事情あって庭で育ててきたジャスミンを一枝だけ、蕾のついたまま切り落とさなくちゃならなかったので、こんなふうに初めて花瓶にさしたらば、たくさんのつぼみが毎日次々と、テーブルの上で開いていくのでびっくり。元気いいなあ。。。なかなかに心を楽しくさせてくれます。パソコンの画面にお花が覆いかぶさってきてるなう。。。

昨夜まで通訳がたて続きにあったのと、先週末の消耗が抜けきらないのとで、なかなか翻訳仕事に戻れずにいたのだけど、今日はようやっと戻れました。そしてよく内容をみたら、自分の関心事ど真ん中の文書だった。。。いつもこういうお仕事を回してくださる担当の(み)さんに感謝の気持ちが募る。つくづく、ありがたいことだなあと思いつつ、下訳を終えた。

20151030_180146 夕方になって、今日は地元の農家さんが無農薬栽培しているお野菜が近所の自然食品店に入荷する日だ、と思い出して、慌てて自転車を走らせてくと、お店のおやじさんが自然農でつくったという「今年最後のゴーヤ」をくださり。。。わあ!ありがとうございます、といって店を出ようとしたら「あ!」と呼びとめられて、さらに、お店のお客さんがつくったというハヤトウリまでおみやげにいただいてしまった。。。買った野菜よりもたくさんのおみやげに恐縮してると、「今日はついてる日だね!」と笑顔のおやじさん。ほんとにいつもやさしくてしていただいてて、なんというか。。。ありがたいことです、ほんとに。

食欲の秋がわたしのとこにも確実に来ていて、いつもならケーキなど甘いおやつの引力が増すのだけど、今年はふしぎなことに、甘くないものを間食に食べたくなることが多く、真夜中にきんぴらごぼうを食べたり。。。どうなっているのかな?

20151029_144104 20151030_120349 サラダ祭りもまだ続いていて、とにかくサラダを1日1回は食べたいのでした。ドレッシングは相変わらず、粒マスタードにメープルシロップ少しとお酢を混ぜたやつ。もしくは黒酢とオリーブオイルを混ぜたやつ。

20151026_123802_2 相方が先日つくってくれた、いただきものの柿を入れたサラダも、ほんとうにおいしかった。

果物も本当においしくて。。。岡山のお知り合いのところで育ったぶどうが、今年はとりわけ大好きな秋の味。あと遠方から訪ねてくださった相方のお友達から、おみやげに地元産ブルーベリーをいただいたのも、ベリー大好きな自分にはたまりません。。。パンにのせると至福の朝ごはんです。20151029_130319

実りの季節ってやっぱりすてきだな。そして知っている人がつくってくださった野菜や果物をいただけることの、ありがたさ、尊さを思います。

よく知らないところで、知らないうちに人や生きものを搾取することになるたけ加担しないよう、できるだけ、身の回りで、自分の信頼する人がつくるものが生活のウエイトを占めるようにするとよいんだろうな。。と常々思ってるんだけど、なかなか難しいし悶々とする。。せめてできる範囲で少しでも、というふうにしてくしかないです。

でも少ない収入のなかから地元の無農薬野菜をがんばって買うと、(それを知ってか)買ったよりももっとたくさんおみやげをお店のおやじさんがくださったりする。。。なんかほっこりして、物理的にもこころの面でも助かります。こういう循環をわたしもまた次へと送りだしていきたいものだー。。。ただ、わたしのこうした金銭的「がんばり」は、もともとの野菜や果物を育ててくださってる人のがんばりと釣り合ってるかというと、やはり育ててくださってる人のがんばりのほうが大きいんだろう、とも思う。

がんばりのなかによろこびのある度合いも、やっぱり、育ててくださってる人のほうが大きんだろうなあ。。。

* * *

Photo さっき読み終わったばかりのこの本、台湾原住民作家のシャマン・ラポガンさん単独の短編集がついに去年翻訳版で出たものなんだけど、ぐいと引きこまれていました。シャマン・ラポガンさんはすべて実話しか書かないとおっしゃっているのだけど、台湾の蘭嶼島に暮らすタオ族のひとりとして、ご自身が16年台湾で過ごした後ふるさとの蘭嶼島にUターンした後の日々が印象的でした。

台湾での「漢人」の価値体系の中での暮らしから、
蘭嶼島でのタオ族の価値体系に、だんだんと回帰していくなかで強調されるのは、本物のタオの男性として社会に認められるためには、食べ物(魚)を自分で海に潜って、もしくは舟を出して、獲ってこれることが不可欠ということ。これは島の近海の潮の流れについて、季節変動について、地形について、魚たちの行動についてなどなどを、経験的に知っていかないとできないことだし、スキルと体力も培わないとできないこと。そのうえさらに、森で木を伐って、自分の手で舟を作ることも、大きな大きな要素。。。(シャマン・ラポガンさんも年配の方々と一緒にタタラ舟をつくったのでした、生木を削って、鉄釘を使わずはめ合わせて作る舟)。

海から食べ物を自分で得ることは、たいへんな苦労と危険を伴うことなんだけれど、素潜り漁に長けてくるにつれて、シャマン・ラポガンさんはそれを「労働」として行うというよりも大きな喜びに浸るためにやるようになっていきます。そこが本当に興味深かった。海に完全に心を奪われてしまって、家族からは漁ばかりしてお金になる仕事をしないと嘆かれ、親には心配されて引きとめられるようになるのだけど、それらを振りきって海へ行く。。。

90年代初めの頃がこういうふうだったそうなのだけど、私がお会いしたとき(東京海洋大学で講演されたときだから2008年)も、まず最初にご自身のことを「作家もしていますが、毎日家族のために魚を獲っています、だから今は(自分が東京に来てしまってるから)妻子は魚を食べられていません」とおっしゃっていたのを覚えています。(魚とタロイモ・サツマイモがタオ族の伝統的な毎日の食事です)。

日々の糧を得ることが、自分のど真ん中のよろこびと直結しているって、すごいし、それをずっと継続していけているってすごい。。

お金を介さずに糧を得るとと、お金を得ること。これらについてよく考えているこの頃です。

どちらにしても透明性のある循環と、よろこびが、そこにあればいいのだろうな、と思う。自分も一ミリずつでも、そちらの方向へ、近づいて行きたいひ。

恥ずかしいの
20151030_233128でめったに人にサインなどもらおうとしないのだけど、シャマン・ラポガンさんには講演が終わった後、勇気をだしてそばへ行き、手帳にサインをもらいました。あれは今からちょうど7年前だったのかあ。。。初めて蘭嶼島をたずねた翌年だ。

自分からサインをもらった人はと考えると、あとはサティシュ・クマールさん、マイク・アボットさん、カジヒデキさん。

その人たちのエッセンスを自分の暮らしの端っこに、なんとか刻印したかったんだなあ。。。7年前に刻印したシャマン・ラポガンさんのエッセンスは今もちゃんと自分の中に残っているみたい。これからは、どうなっていくんだろう。

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2015.08.26

つながりの中から拾い上げてく

20150826_184131 今夜は夕暮れ過ぎに川べりを自転車で走ってたら、お祭り囃子が聞こえてきて、そしたら橋の上にぼんぼりをいっぱいつけたおみこしがいた。子供たちが太鼓を打ち鳴らして、大人たちが山車を引いていた。夕空の蒼にぼんぼりの灯が映えていて、きれいだった。笛のひびきも。一瞬時空をさらわれるような感覚になる、こういうとき。

さて、昨日会った(ふ)ちゃんから、以前わたしが好きだと言ってたアン・モロー・リンドバーグの本を読んだけどうんぬん、と言われ、え、その人知らないし、読んだこともないよ、(ふ)ちゃんそれは(ふ)ちゃんの夢の中での話だよ!と力説したら、(ふ)ちゃんと、あと一緒にその場にいた相方の両方から、なぜか逆に、その本を読むよう「夢」から呼ばれてるのはわたしのほうだ、という結論を出され。。。その本のタイトルは確かLife from the Seaだったなあ、と今朝起きぬけに思い出していました。

で、おととい行った、だいすきな鎌倉のカフェのトイレの中に張ってあった、「LIFE Sea」という、最近うちの近所にオープンしたらしいレストランのチラシも同時に思い出され。似ているな、本のタイトルとレストランの名前、と思ったのでした。

ということは、レストランに呼ばれている可能性もある、と考えて、翻訳仕事がたまってなくて久々の3連休目となった今日、行ってみちゃうことにした。

そこはちょうど、ちょっと前から気になっていた蔦屋書店というところに去年できたレストランでした(そうだ、そして昨日(ふ)ちゃんからは、この蔦屋書店もおもしろいから行くとよい、と強く勧められたのだった、彼女はこの近所に住んでいるわけではないのに、なぜかそこのことを知っていて)。初めて行く場所だったけど、行ってみたらば、いつもよく行く近所の植物園からほんのちょと先で、思っていたよりもずっと自転車圏内。こんなところにこんなのができてたとは、と驚く。。。

本とそのほかの生活雑貨(食品から身の回りの雑貨や衣類やまで)が有機的に混ざり合ってディスプレーされているおもしろい空間で、しかも買う前の本もゆっくり読めるソファや椅子がそこここにたっぷりあって、大変よいところでした。

20150826_171733 結構目立つところに、LGBT関連本特集のテーブルディスプレーなんかもあって。。奥のほうにはワークショップスペースや手しごとの作り手さんを応援するスペースなどもあり。。。レストランやコンビニやドリンクのカウンターなどが、本や雑貨の合間からふいと突然表れる。

で、LIFE Seaというレストランに入ってみました。居心地よく、お味もよくて、いいところだった。ホットコーヒーを飲んだのだけど、後でお店の中にあった冊子を見ていたら、ここのコーヒー豆を焙煎しているのが、あの鎌倉のカフェのオーナーだったのでした。なるほどそういうつながりがあったのか。

鎌倉の、ディモンシュという、あのカフェもそうなのだけど、ここLIFE Seaも、代表者の顔と名前がちゃんとわかって、何が好きでどういうことを大事にしてやってこうとしてるのかとかも、ほんのりわかる。非直接的にだけど、そういうことがコミュニケートされてる。こういうふうなのは、好きだな、と思った。

でもそれ以上は、ここに呼ばれた(?)意味は不明で。。。帰宅してから、今度はアン・モロー・リンドバーグを検索してみた。

そうしたら、彼女が書いたという、とっても気になる文章が出てきた↓

For Sayonara, literally translated, 'Since it must be so,' of all the good-bys I have heard is the most beautiful. Unlike the Auf Wiedershens and Au revoirs, it does not try to cheat itself by any bravado 'Till we meet again,' any sedative to postpone the pain of separation. It does not evade the issue like the sturdy blinking Farewell. Farewell is a father's good-by. It is - 'Go out in the world and do well, my son.' It is encouragement and admonition. It is hope and faith. But it passes over the significance of the moment; of parting it says nothing. It hides its emotion. It says too little. While Good-by ('God be with you') and Adios say too much. They try to bridge the distance, almost to deny it. Good-by is a prayer, a ringing cry. 'You must not go - I cannot bear to have you go! But you shall not go alone, unwatched. God will be with you. God's hand will over you' and even - underneath, hidden, but it is there, incorrigible - 'I will be with you; I will watch you - always.' It is a mother's good-by. But Sayonara says neither too much nor too little. It is a simple acceptance of fact. All understanding of life lies in its limits. All emotion, smoldering, is banked up behind it. But it says nothing. It is really the unspoken good-by, the pressure of a hand, 'Sayonara.

日本で暮らす身でありながら、「さようなら」とは、「左様なら(ば、仕方ない)」という意味だったと、初めて知った。「Since it must be so」と文字通り訳してあったおかげで、ああ、そうか、と。

リンドバーグさんは、この日本語の別れの言葉は、自分が耳にした世界のさまざまな別れの挨拶の中でも一番美しい、と言っていて、他の言語の別れの挨拶と内容を比べているのだけど、こういう感性を持ったリンドバーグさんに、関心が湧いた。

Giftfromthesea じゃあ、やっぱり彼女の本を読んでみるべきなのか、と思ってもういちどよく見たら、タイトルはLife from the Seaではなくて、Gift from the Seaだった。。。あれれ。。 ちなみに上記の文章が出てくるのは、彼女の別の作品、North to the Orient。このタイトルも、きれいだな。

両方とも、いつか読んでみたい本リストに、ほんのり加えておくことにします。さまざまな伏線とご縁をありがとう、(ふ)ちゃん。

(蔦屋書店の中で、もうひとつ、気になったイベントがあったのだけど、そちらのことは、まだ考え中。)

最近、どんなインプットを入れるかに、どうも慎重になっているみたい。ぼんやりしているせいもあって。でもここ数日は天国みたいに涼しくなって、だいぶんマトモに考えられるようになってはきてるけども、なんだか気を抜くと、やっぱりぼんやりがはじまるのでした。

* * *

ただ、ずうっと、楽しいはずのことをしても心が動かず、なにかをしようという意欲も湧かずだったのが、ちょっと上向いてきてるようではあって、おととい、近場の低山にハイキングにいってみたらば、想像以上に楽しかった。。とってもおおきな楠もいたし、樹齢750年のビャクシンの 木もいた、もう神話のなかの木みたいでした。Img_4119

食事中のりすにも会って、細い枝の上で宙返りして実をもいだり、となりの杉の木にとびうつって、後ろ足で幹に ぶらさがり、前足は両ひじをついて手に持った実をかじったり(おなかはぺたりと幹についてて、ちょうど床にうつぶせに寝転んで両肘をたててる人みたいなの が、バーティカルになったふう)、わたしからみるとどれも離れ業ばかり。でもりすにとっては樹上こそがホームで、くつろいだ自由な身のこなしは見ていてほ んとにあこがれた。

汗もかいたけど嶺を吹き抜ける風は涼しくて、快適で、あんまりあせベタにならなかったけど、でもハイキングしたら最後はお風呂で締めないと、と下山したところから一番近い銭湯に行ったら、古いけどこざっぱりときれいなとこで、脱衣かごが銭湯ではみたことないようなおおらかですてきな藤製のかごで、ロッ カーはなくて、お風呂のなかにはどどーんと本栖湖の絵。お湯がやわらかいな、と思ったの20150824_183328 で番頭さんに聞いてみたら、薪で沸かしてるからですよ、ガスと違っ てやわらかくなるんですよ、と、常連のおばさんとふたりで嬉しそうに説明してくださり。すごいですね、というと、またいらっしゃい、と。

いろんなありがたいことがあったのでした。有難い、の文字通り。。。

そうだ、そして、おととい、あの銭湯で使った、他では見たことがなかったすてきな藤製の脱衣かご。あれとおんなじかごが、今日、LIFE Seaでコーヒーを飲んだ時「荷物置きにどうぞ」と差し出されたのだったっけ。お手洗いは昔ながらのぽっとんで、湯沸かしは薪(銭湯横にうずたかく積み上げられた廃材たち)という、昭和15年(戦前だ。。)創業のあの銭湯と、去年オープンしたばかりのおしゃれなイタリアンレストランが、藤のかごでつながっていたのでした。おもしろいな。

ハイキングしてたとき、こんなして歩くだけでおもしろいんだから、いいねえと思ったけれど、ハイキングでなくても、近所をふらふらするだけでも、おもしろいことはあるもんだなあ。。

でもやっぱり元気が出たのは、なにより、山道の木々や動植物のおかげだと確信しています。そうだ、それも、今日行ったレストラン、LIFE Seaの代表者の相場さんが、お店の冊子に書いていた文章の中に似たようなことがあって、「お」と思ったのだったっけ。

ロンドンのPetersham Nurseriesというところへ彼が行ったときのお話なんだけど、この植物の巨大温室をそのままカフェにしたような場にいて、「とにかく心地いい」と言い、「植物=エネルギーなので、食事からとるエネルギーだけでなく、こうしても植物からも感じられるのはすごく贅沢。」と書いてらした。相場さんはそもそも、「外で元気に花や緑が生い茂る中で食事ができるレストラン」を夢見ていたそうで、その実現に向けて「1歩が踏み出されたような気がしています」とも書いていらした。

木々を眺めては「森林浴だ、森林浴だ」、鈴虫の声を聞いては「リンリン浴だ、リンリン浴だ」、蝉の声を聞いては「ミンミン浴だ、ミンミン浴だ」と、なんども相方とそんなことを言いながら歩いた山道。冗談みたいにいってたけど、ほんとうに、浴していたんだな。ありがとう、と思う。。。

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2011.02.19

緑の見取り図

あかい、あかり

つめたい、つめあと

ここにない、こころ

ひとつもない、ひとかげ

まわりまわる、真綿

いきできない、いきれない

いきできない、いきれない


なつかしい、なつのひ

せみのなく、セミサークル

てんじょうのした、てんになって

ただそこにいただけ

てんくうのした、てんになって

ただいきものだっただけ


空白を食う

YES

森の守びとの

NO

不均衡に、布巾をかけて

付近を駆け抜ける

わたしの綿菓子

走りながら、端をつまんで

投げては、嘆いて

投げては、嘆いて

「9台目の救急車も

入れなかった、排除された」


涙から、波ができて

海から、膿が出る



赤い垢

黒い苦労

浄化するJoker

風流なFool

カードのかどにある

印を知る

四角い視界の

端にある橋



灰の背後

横切る陽光

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2008.10.16

ミーハーなわたくし。。

Dscf0007_2ある作家さんの講演を聴きに行って、手帳にサインをもらいました。

ミーハーなことをしたなあと、しみじみ思いました。手帳を差し出して、「本、読みました。心に残りました。あの、サインください」

と、まるで高校生のようなノリで(というか今どきの高校生はこんなではないな、きっと。。一昔もふた昔も前の高校生という感じ。。)

サインをもらおうなんて、そもそも考えてもいなかった。「サインください」なんてことを口走ったのは、実は生まれて初めてかも。。

ただ、お話を聞いているうちに、今日という日と、この人という人を、自分の中に刻んでおきたいような気持ちになって、思わず「サインを」となってしまったのでした。

その人は、数ヶ月前に、講演のお話を打診されてから、実際に講演をするために日本にやってくるまでのあいだ、なにをしていたかといえば、毎日海に出ていた、と言っていました。漁をしていた、と。

一番元気だった頃には、素もぐりで水深32メートルまで行けていたそうです。

講演では、海洋民族の文化についてお話くださいました。舟のこと、漁のやり方、風の名前、潮の名前、星の話。。。そんなお話をいろいろ聞きました。

「人間と海」について学びたくて、外国の大学に行って人類学を専攻したけれど、欧米の人類学では、海洋文化についてはひとつも学べなかった、と言っていました。

「海洋民族」の自分なりの定義として「海に対する歌があれば、その民族は海洋民族だと思う」と言っていたのが印象的でした。

彼の島では、いくつか重要視されている星や星座があって、星座では魚座と蠍座、惑星では金星などがそれに当たるそうです。

金星は「太陽を寝かせるもの」という意味の言葉で呼ばれているとか。

風の呼び名にも、星の呼び名にも、どちらにも「シャイ(はずかしい)」というのがあったのが興味深かった。「シャイな風」は、来るのも早くて去るのも早い、西からの風。

暦も、数字の暦ではなくて、毎日にそれぞれ名前がついている暦があるそうです。

* * *

あなたの住む島には、若い漁師もいますか?日本では若い漁師が減ってきているのだけれど。という質問をされて、

「若い人も、島の男性は全員漁ができます。でも、あなたのいう『漁師』というのは、職業としての漁師という意味?」と聞き返していたっけ。

(「妻は、自分が今日本に来てしまっているので新鮮な魚を食べられないでいるんですね」とも言ってた。。)

あと、島の手漕ぎ舟に比較して、ヨーロッパのヨットについて話していたとき、こんなふうに言ってました。

「ヨーロッパのヨットは確かに速いけど、海に関する知識を失うのも速い。風の名前も知らないし、潮の大きさにも関心を寄せない。GPSが付いてるからね」

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2008.09.20

空気のカプセル

姪っ子のお誕生日のお祝いに、本をリクエストされて、それで今日は、よく知らない町の、古い商店街の一角の、小さい本屋さんで、さんざん立ち読みしました。

蚊に刺されたりなんかしつつ、子どもの本を読みふけり。。。

この2冊に決めました。

Photo_3Photo_2

両方おんなじサイズですが、
「ちいさいおうち」は左に開く本で、
「こねこのぴっち」は右に開く本。

2冊とも、あまりに気に入ってしまって、帰りの電車の中でもまた読み返し、絵をすみずみまで眺めて、楽しい時間を過ごしました。

帰宅して、パートナーと話したら、「ちいさいおうち」はパートナーにとって、忘れなれない大事な1冊だったとのこと。

* * *

絵とおはなしを、別々の人が担当する本もあるけれど、この2冊は作者が絵とおはなしの両方を手がけています。

どちらも、今よりもっと前の時代に誕生した本。絵の中に、その頃の時代の空気が宿っています。ページを開く=タイムカプセルを開ける、みたいな感じがする。

なんというか、ぽそっとしてて、軽やかで、やさしい空気なんだなー。。

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2008.05.03

腑に落ちない。。

めずらしく、たまたま見かけた小説を衝動読みしてしまいました。

だって、スピッツの草野くんが帯に推薦文書いているんだもの。そして表紙の絵が素敵だったんだもの。。。

Photo「食べる」ことを中心にすえた『食堂かたつむり』というお話。

でも私的にはNGでした。

生きていると感じたくないとき、インスタント食品を食べたくなる、というのはなんとなくうなずけたけれど。食べるということの深みに迫ろうとしたのは、すてきな挑戦だったけれど。

なにかが断然しっくりこないのでした。

人物がうすっぺらく見えてしまうというのが、たぶん一番の理由です。

日本で暮らすインド人、アルゼンチン人、ゲイカップル、という設定の人たちの描かれ方も腑に落ちませんでした(インド人とアルゼンチン人はどちらも、純粋に愛されていたのにものすごい裏切り方をして去っていく人たちという設定だし、食堂かたつむりのほかのお客さんたちがみんな丁寧に具体的に描きこまれているなか、「同性愛の男性カップル」のことはまったく具体的な描写もなく、ただ「秘密のハネムーン」だった、とあるだけで、「後日、食堂かたつむり宛に素敵なクリスマスプレゼントが届けられた」という一文があるけれど、そのプレゼントがなんだったかさえ書かれていなかったり。)

一緒に暮らしている動物への気持ちとかも。

食べることそのものについても、肝心のところ(わたしにとって、だけれど)がぶれている気がしてなりませんでした。。。

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2008.03.07

ひなたぼっこ日和

本日の東京はひなたぼっこ日和です。窓を開け放したら、ねこもさっそくひだまりで丸くなっています。直射日光を浴びるのは気持ちいいね。

ときどき、キンモクセイの木に風がとおって、葉っぱがシャラシャラいっている。。。

ときどき、空のはるか上のほうをヒコーキがとおっていくときの、くぐもった音が。

それでまた、静けさ。小鳥のこえ。

時計の針のすすむ音。

自分がキーボードを打つときの音。

ほかにはなんにも聞こえません。

春が来ているぞ。
この、少しだけ熱を帯びた静けさは、春のもの。

* * *

それで思い出しました、中原中也の、この詩。

お天氣の日の、海の沖は
なんと、あんなに綺麗なんだ!
お天氣の日の、海の沖は、
まるで、金や、銀ではないか

金や銀の沖の波に、
ひかれひかれて、岬の端に
やつて來たれど金や銀は
なほもとほのき、沖で光つた。

岬の端には煉瓦工場が、
工場の庭には煉瓦干されて、
煉瓦干されて赫々してゐた
しかも工場は、音とてなかつた

煉瓦工場に、煙をば据ゑて、
私は暫く煙草を吹かした。
煙草吹かしてぼんやりしてると、
沖の方では波が鳴つてた。

沖の方では波が鳴らうと、
私はかまはずぼんやりしてゐた。
ぼんやりしてると頭も胸も
ポカポカポカポカ暖かだつた

ポカポカポカポカ暖かだつたよ
岬の工場は春の陽をうけ、
煉瓦工場は音とてもなく
裏の木立で鳥が啼いてた

鳥が啼いても煉瓦工場は、
ビクともしないでジツとしてゐた
鳥が啼いても煉瓦工場の、
窓の硝子は陽をうけてゐた

窓の硝子は陽をうけてても
ちつとも暖かさうではなかつた
春のはじめのお天氣の日の
岬の端の煉瓦工場よ!

『在りし日の歌』(1938)収録の「思い出」より抜粋

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2007.12.19

60通りの可能性

昨日、松浦理英子さんの小説『犬身』について、自分が感覚していることがどんなに世間の一般常識で理解されにくいものであっても、それを自分の中では、まったく疑ったり打ち消したりすることのない主人公に、「健全な明るさ」を感じると書きましたが。

その後少しして、作者はひょっとして意図的に、そういう天然で健全な明るさを主人公に持たせたのかも、と思い至りました。

なにかの状況について内で感じていることを、外から「あなたはこれこれこういうふうに感じているのだ」と別のストーリーで読み取られて、書き換えられていく。いつのまにか、そうなのだと「思わされて」いる。。。そういう体験に対して、この本は、頑固に「ノー」を言っているような気がしてきました。

* * *

松田聖子がむかーし歌っていた曲の中に「キッスはいやと言っても反対の意味よ~」という詞がありました。子供として、これを聞いたわたしは、へえーと思ったものでした。

でも大人になってから、いやと言ってるのに「ほんとはいやじゃないんでしょ」と受け取られる場面を体験したりして、そのときには「この人は松田聖子のあのうたを聴いて育ったのかしら」と思ったり。。。

もちろん、実際「いやと言っても反対の意味」なときだって、多々あるわけで。。ひとつの状況や言動には、はたからみれば、いろんな説明があてはまる。。。

こないだ聞いたのだけれど、『知恵の三つ編み』 (ポーラ・アンダーウッド著・星川淳訳)という本の中に、こんな一説があるそうです↓

形をとったすべての現象について、
その現象をきちんと説明できる説明を少なくとも六通り考え出すこと。
説明は六十通りあるかもしれないが、
もし六通りでも考えだすことができれば、
宇宙の複雑さと知覚の多様性に気がつくだろう。
そうすれば、最初に思いついたもっともらしい説明を「真理」に祭り上げて、
それにしがみつくことを防げるにちがいない。

自分が「真理の押し当て」という暴力をしているかもしれないことを、視野にいれておきたい、わたし自身はなにを感じているのかを、もっとちゃんと大事にしたい、そんなふうに思う今日です。

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2007.12.18

小鳥と本とブランデー入りココア

月桂樹にたわむれるメジロを見ていた翌朝、夢の中に、小鳥が5~6羽出てきました。みんなカラフルで、インコだったと思う。どうやらわたしがみんなお世話をするようでした。。。

松浦理英子さんの新刊「犬身」を読みました。よかったよー、とパートナーに言うと「どのへんが?」と聞かれて、そのとき口を突いてでた返事は「問いかけが」。

Kenshinそんなにたくさん小説を読むほうではないのだけれど、確かに、ほんとうに好きな小説って、読んだ後も、いろいろな問いかけが意識の水面に波立つような小説かもなー。

このお話は、犬が大好きで、自分は「種同一性障害」かも、犬になれたらいいのに、と感じている主人公が、本当に犬になる、という展開をします。

「種同一性障害かも」という気持ち、わたしも持ったことがあるけれど(犬ではないけど)。。。松浦さんのお話に出てくる主人公は、自分が生理的に「感覚していることがら」に対して、ものすごく素直に生きていて、「これは間違っているのでは、ヘンなのでは」と疑ったり、思い悩んだり、否定したり、なんとか変えようとしたり、とかそういうすったもんだがぜんぜんないのが特徴的。。。

そこのとこに、なんだかものすごい明るい健全さを感じます。

そういう主人公のあり方も含め、いろいろな問いかけが、水面にぷかぷかしている感じが続いていて。そのこと自体、気に入っています。

もひとつ、ここ数日のお気に入りは、ブランデー入りココア。普通にココアをつくるときに、途中で小さじ1杯ほどのブランデーを入れる。どうかするほどおいしくなります! 

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2007.05.10

ことば

コトの葉っぱ
どこから摘んできた?

深くあおく、透きとおった、あの、空の地層

そこから採ってきた
ほんとは、そうでした

小鳥からむしり取って、羽だけあげる

そんなこと、してないつもりでした

でもそのくらい、残酷だった

わたしのコトバたち

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