2017.10.05

おかしなぬりえ

<おかしなぬりえ>

わたしのカタチ
わたしの過去のカタチ

トレーシングペーパにざざっと写し取られて
色を塗られてしまうってあるんだなあ

思いもしない色を塗られてびっくり

でもそういう自分も確かにいたのかも
なんて思い始めて

おかしなぬりえを
じいっと眺める

違和感をずるずるひきずりながら
この違和感は大事だと思いながら。

でもほんとうは
ほんとうにほんとうは

よその人が知ってるんじゃなくて

わたしが知ってるんだよな!
わたしのトゥルーカラー

心通わせてきてくれた
家族も知ってる

ねこのにゃみちゃんも知ってる

これはただのぬりえ。

違和感を感じるものには
気が引かれるけど

「ちがう」とわかったらもう
じいっと眺めてなくてよかったんだ

ふっと風にのせてしまえばいいことだった

ちがうよ、おかしなの描いたねえって
笑ってればいいことだった

おかしなぬりえに
まじめに接するのが礼儀と思っちゃって
埋没しちゃってたな

さわやかなとこへ出てこよう
正気にもどろう

さわやかにくつろいで
刻一刻変わりゆく自分でいることが
わたしにできるいちばんのことだって

だんだんわかりだしてるんだ

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2017.09.07

T2/満月の朝

21367034_10212459892146409_87881398 少し肌寒くなってくると、マヤナッツがしみじみおいしくなる〜。。◯  徹夜仕事のあとにはとくに最高においしいす。ありがとうマヤナッツ。。

ひさかたぶりに完全徹夜。。十数時間のマラソン集中で、ルビの振り間違いとかありそうでこわい、と思いつつ、ひとまず、手を離れたものはリリース。。。です。

全力出しきる、マラソン走りきる、みたいな仕事の仕方はやっぱりよくないのはわかってるのだけど、締め切りの都合で今回は仕方なかったのでした(そして明日からキャンプに行きたい、という自分の予定も大切にしたくて)。

こういう無理をしないようになってから安定してきてたのにーと思う一方で、最近本気を出すってこともしてなかったから、うだうだ感に覆われていたのかもしれないよ?とも思ったりもする。

冥王星をぐいと動かすようなことを、たまにしないと、わたしの場合はバックラッシュが来るんじゃないか、という仮説があって。。。ここのところはまだまだ検証中です。

冥王星をぐいと動かすようなのの対局にある、あの、花がひらくときのようなエネルギー、筋力とかでないもっと循環する生体能力みたいなあの力に、ものすごくあこがれを持ちつつ。。。

バランスとバライエティをこう、とおくから眺めているようなふうです。

とりあえず、すごくしょうもないことをいつもいっぱい考えているから、それはもっと減らしてもいいように思えています。

”ぼんやり力”を高めることで元気にすごせます、と野口整体のせんせいに言われてから、ときどきそれは心がけてはいる。

さてはて。。

ここさいきんのなぐり書き。

+ + +

<  T2 

今日は風がないな
しっとりした空気
雲にミュートされた午前の薄光に
植物たちの緑、黄緑がやけにあざやかだな

急に終わったとおぼしき夏を懐かしみつつ
長袖シャツを着て仕事に向かう

ずっと調子が上がらないままの日々

すべては精神状態ひとつ、とわかっていても
翻弄されつづけてる

うまく自分をきりもりできずにいてねえ

ささいなことをもっと気にしないようになりたいな

そのためにはもっと、「集中」の濃度を上げることかな
「夢中」になるくらいまでに?

でも「夢中」のあとにはまた「霧中」になって
そうやって行ったり来たりを繰り返すって知ってる

できればもっとマイルドに
ワイルドでなくマイルドに
静かにくつろいで、冴えている、

そんな感じを増やしたいんだけど
自分の体質向きじゃないのかな

ささいなことを気にしたくないけど
ささいなことこそ大事だって予感もいつだってある

生まれたときから体の中に持っているT

2つのものが
折り合いをつけるなんてまっぴらごめん
と言っている

2つは真逆に向かってるんでなくて
お互いに対してちょうど90度
それぞれ、わが道を進もうとするだけで
相手に横槍を入れてしまう

前へ走り出そうとするときに横にはじかれる
ってきついんだよね

だから線でなくて面の意識
ベクトルでなくて場の意識
個々の視点を離れてさ
ふわっと空に上がって
二乗にした場のほうに
ピントを合わせられたらなあ

線としての前進よりも
面の広がりのほうに
よろこびを覚えていられたらなあ

成長神話の世の中にいても
場のふくよかさにくつろいでいられたらなあ

(9月4日)

+ + +

<満月の朝>

今朝目覚めて、ああ
なんて頭の中が被害妄想でいっぱい。。
と我にかえっちゃった

それらのあいだにぎゅぎゅっと挟まれているのってなんだ
ゴミ溜めの中で暮らしてるような感じ?

足の踏み場もなくて不自由してるのに
どうしていっこうに片づけようとしてこなかったろうね。。

この風通しの悪さが「ふつう」だと
思ってきたんだなあ、長いこと

若いころの自分はもうほんとうに四六時中緊張していて
ゆとりもよゆうもなかったし

(今だってさしてゆとりもよゆうもないけれど)

なかなかたいへんだったねえ

花 ひらく花

花がひらくときのような、繊細で前向きなエネルギー

ひらきつづけているときのような、繊細なゆるぎなさ

そういうデリケートな努力で
世界と関わっていけたらいいな

歯をくいしばって耐えるのは
もうだいぶんやってきたので、for a changeで

ほんとうに、ここから
このこころのそこから



自分のことばかりで手一杯て
ぶざまだな、と思いつつ
まあまあ、今の時期は、と
やんわりなぐさめてる



ゆっくり
48時間くらいかけて降ってくる
目に見えないくらい小さい透明の粒

いつも降らせてくれていて
ありがとう

(9月6日満月後)

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2017.08.27

海あそび・2/平成の装い

<海あそび・2>

Img_1039_1 

海は水着を着たまま行く
浜についたらすぐ波間へ

今日も海水浴です

ほんとにお風呂に入っているみたい
どこまでも広がる大きなお風呂

波がおだやかだったら
ひたすら波間に寝転がる
仰向いてプカプカ

入道雲ととんびを見上げて
太陽を全身にもらうんです


海はみんなとわけっこする
波うちぎわから波間まで

今日も海水浴です

一緒にお風呂に入っているみたい
波乗りのウミネコ、跳ねるお魚

すっかり涼しくなったら
のんびり砂浜に寝転がる
仰向いてウトウト

帽子を顔にのっけておいて
そよ風を全身にもらうんです

Img_1037_1

着替えはちゃっと浜でする
砂が熱かったらすぐ水辺へ

今日も海水浴です

一緒にお風呂に入ったときみたい
ほら、とパンツを見せてくれる友

うっかり見せてもらったら
フルーツみたいなすこやかさ
宙を見てクスクス

足を砂だらけにしたままで
友情を全身にもらうんです

(8月21日、鵠沼海岸、(ゆ)ちゃん、(じゅ)ちゃんと)

+ + +

<平成の装い>

Img_1824_1

ああ。こうやって時代から
あぶれていくんだろうな

と、やけにずしりとした実感を持った

世の中の流れ、のようなものの行く先を見ていて

ああ。ついていけない
ついていく意味がわからない

資本主義の果て?
愛の定義の謎が深まる

すべてがエクスチェンジの上で成り立つ世界

それは実像に近いんだろう、きっと

でも最近よく視界がかすむ

残像のようなものが見えていて
そのダブルに重なっているもう1つの輪郭と
この世の輪郭とのあいだの
ぼんやりぼやけた領域

そこに憩う。。。

あの隙間

有元利夫さんの絵に描き込んであった

自由に泳げた

あの隙間


21世紀かあ

光の明滅を眺めているだけのこの頃
幸せの定義の果てしなさに
声をなくしていて

切り刻まれた現実で
消化不良を起こして

商品のようにきれいに並ぶ
他人の記憶の色鮮やかさに
感心することしきり

カラフルなのが好きだし
軽やかなのも好き

なのに自分はどんどんあおざめて
どんどん重たくなってくみたい

時代の空気に浮かんでいようと
なるべく軽やかでいようと
明るいほうを向くのだけど

じわじわわけがわからなくなってくる

「頭で考えるのをやめて、感じるんだよ」
というアドバイスをありがたくもらって
ぼんやりと思考を停止する

そうやってさらに暗く影みたいにあおざめて

最後の悪あがきみたいに
なぐり書きを書き連ねるだけ

キラキラ明滅する四角い世界に
弱い毒をたれ流すだけ

この全部から離れたところに
手つかずの健やかさがあることを知りながら

限界がきしむ音を聞きながら
平成を装ってるだけ

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2017.08.13

すきとおる/海あそび

断片化シリーズ。8月11日のぶん。この日は降ってきた、というより、ちょっとふり落としたみたいなふうでした。。

+ + +

<すきとおる>

Img_1843_1_2

「行きたいのはただ
野生動物の視野の中」

と書いてたら蝉の鳴く庭から
野ねこが窓を叩いた、朝

いつも闇に紛れてやってくる彼女
今日は巻いてきたらしい、過去を

陽のあたる場所を通ってきたんだねえ
アンテナの精度はあいかわらずだねえ

感心して
安心して
すきとおる絆によりかかる

書くこともなくなって、黙る……

+ + +

<海あそび>

0025_xlarge_1_2

下を向いたら見えた、水底の夢
青いソラスズメの群れ
視野を埋める、光る青、揺らぐ瑠璃に
吸い込まれる、意識の息継ぎに

仰向いて波間によりかかって
空の深さを測って

降ってくる日差しと
まぶたのひさしを
絶妙にバランスさせて
視野に光を氾濫させて

波の上下動を感知しつつ
おおいなる平安に沈む…~~…

少ししたらまた

下向いてユラユラ
仰向いてプカプカ

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(8月10日、胴網海岸、(ゆ)ちゃん、(み)ちゃんと)

+ + +

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朝の記憶/ゼロ

8月8日に、ふいっと言葉が降ってきて、つきあってみはじめて、そこからちょっと続いています、断片化。

饒舌すぎる(自分でも後で読み返すのがつらいほど)長文のブログに、ストップをかけてみたかったのかもなあ。。それでも自分のことばを発しないと、職業柄困ってゆくので(人の言葉ばかり扱う仕事をしているので)、こういう折り合いの付け方が発見されて、お、となっているのかも。。

よりパーソナルに(好き勝手に)ことばを使えるぶん、今の自分のニーズに合っているのかもしれないです。記憶とか、自分にとって大切な事象や質感を、真空パックできてよいようです。

以下、8月9日のぶん。

+ + +

<朝の記憶>

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コーヒーを飲まなかった朝に思い出した
高校時代の制服は

水色のシャツに、みみず色のスカート

当時はイケテナイと思ってたけど
どうして今思うとなかなかいい

南の島だったからどこの学校の制服も
みんなはっきりした色だった

生徒たちの不人気があってか
制服が新しくなったときはちょっとうれしかった

洗練された(?)センスの
ストライプのシャツに、シティグレーのスカート

水とみみずはあっさり忘れられた

あれからしばらく荒れ地にいて
鈴の音を耳に沈めて
涼しく眠った

久しく日差しもなかったね……

目を覚ましたら、冥王星が降格していた

あきらかに
明るかったんだ

+ + +

<ゼロ>

内気でもなんでもない旧友に
打ち明け話をされて
心にのこる、個々のことばのさわやかさ

会って日が浅い友だちに
深い話をしたね今日はと言われて
不格好にポケットに手をつっこんだときの
ハテナの果ても

どれもかけがえない、崖からの景色

バライエティーとバランスの
楽しさと頼もしさ

みんな、星の冠をかぶってる
民主主義だ、たましいの

「中心は、外にはありません
中立は、中に立つということです」

ふふふ ふふふふ

ふがいなさが笑える
笑う藁しべ長者です

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2017.08.11

うたたね

こないだ、なんかふいっと言葉が降ってきたので、それにつきあってみたら、こんなふうになりました。

書く過程で、いろいろ知らされたような体験でした。。まだ、はて?な部分もあるけど。。

<うたたね>

たとえて言えば トタン屋根
港の 南側
太平洋と 対等に
すっくと立つ
小屋

ビロードの空 ひろやかに
うかつに 穿たれた
穴から あなたは
ほしいままに 星々を
ふり落とす

いざというときの 潔さ
に 似た
からだ からの
決意で

その境地を享受できたら……

とタウンホームの 戸棚の中で
綿にくるまる わたし

ひとの 瞳が
壊れそうで 怖い
無害な 無我で
いたい

うたたねをたたみかける……

薬をくれた 楠に
音楽で 恩返しをしたい
いつか It's a matter of time, right?

うたタネをつっついて 続けてく

めぐりを めくって
時を 解き
ぼんやりした ほんとうの日々に
道が 満ちてくまで

てくてく てくてく

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2015.10.30

実りの秋に、透明な循環について考えた

20151030_112145 事情あって庭で育ててきたジャスミンを一枝だけ、蕾のついたまま切り落とさなくちゃならなかったので、こんなふうに初めて花瓶にさしたらば、たくさんのつぼみが毎日次々と、テーブルの上で開いていくのでびっくり。元気いいなあ。。。なかなかに心を楽しくさせてくれます。パソコンの画面にお花が覆いかぶさってきてるなう。。。

昨夜まで通訳がたて続きにあったのと、先週末の消耗が抜けきらないのとで、なかなか翻訳仕事に戻れずにいたのだけど、今日はようやっと戻れました。そしてよく内容をみたら、自分の関心事ど真ん中の文書だった。。。いつもこういうお仕事を回してくださる担当の(み)さんに感謝の気持ちが募る。つくづく、ありがたいことだなあと思いつつ、下訳を終えた。

20151030_180146 夕方になって、今日は地元の農家さんが無農薬栽培しているお野菜が近所の自然食品店に入荷する日だ、と思い出して、慌てて自転車を走らせてくと、お店のおやじさんが自然農でつくったという「今年最後のゴーヤ」をくださり。。。わあ!ありがとうございます、といって店を出ようとしたら「あ!」と呼びとめられて、さらに、お店のお客さんがつくったというハヤトウリまでおみやげにいただいてしまった。。。買った野菜よりもたくさんのおみやげに恐縮してると、「今日はついてる日だね!」と笑顔のおやじさん。ほんとにいつもやさしくてしていただいてて、なんというか。。。ありがたいことです、ほんとに。

食欲の秋がわたしのとこにも確実に来ていて、いつもならケーキなど甘いおやつの引力が増すのだけど、今年はふしぎなことに、甘くないものを間食に食べたくなることが多く、真夜中にきんぴらごぼうを食べたり。。。どうなっているのかな?

20151029_144104 20151030_120349 サラダ祭りもまだ続いていて、とにかくサラダを1日1回は食べたいのでした。ドレッシングは相変わらず、粒マスタードにメープルシロップ少しとお酢を混ぜたやつ。もしくは黒酢とオリーブオイルを混ぜたやつ。

20151026_123802_2 相方が先日つくってくれた、いただきものの柿を入れたサラダも、ほんとうにおいしかった。

果物も本当においしくて。。。岡山のお知り合いのところで育ったぶどうが、今年はとりわけ大好きな秋の味。あと遠方から訪ねてくださった相方のお友達から、おみやげに地元産ブルーベリーをいただいたのも、ベリー大好きな自分にはたまりません。。。パンにのせると至福の朝ごはんです。20151029_130319

実りの季節ってやっぱりすてきだな。そして知っている人がつくってくださった野菜や果物をいただけることの、ありがたさ、尊さを思います。

よく知らないところで、知らないうちに人や生きものを搾取することになるたけ加担しないよう、できるだけ、身の回りで、自分の信頼する人がつくるものが生活のウエイトを占めるようにするとよいんだろうな。。と常々思ってるんだけど、なかなか難しいし悶々とする。。せめてできる範囲で少しでも、というふうにしてくしかないです。

でも少ない収入のなかから地元の無農薬野菜をがんばって買うと、(それを知ってか)買ったよりももっとたくさんおみやげをお店のおやじさんがくださったりする。。。なんかほっこりして、物理的にもこころの面でも助かります。こういう循環をわたしもまた次へと送りだしていきたいものだー。。。ただ、わたしのこうした金銭的「がんばり」は、もともとの野菜や果物を育ててくださってる人のがんばりと釣り合ってるかというと、やはり育ててくださってる人のがんばりのほうが大きいんだろう、とも思う。

がんばりのなかによろこびのある度合いも、やっぱり、育ててくださってる人のほうが大きんだろうなあ。。。

* * *

Photo さっき読み終わったばかりのこの本、台湾原住民作家のシャマン・ラポガンさん単独の短編集がついに去年翻訳版で出たものなんだけど、ぐいと引きこまれていました。シャマン・ラポガンさんはすべて実話しか書かないとおっしゃっているのだけど、台湾の蘭嶼島に暮らすタオ族のひとりとして、ご自身が16年台湾で過ごした後ふるさとの蘭嶼島にUターンした後の日々が印象的でした。

台湾での「漢人」の価値体系の中での暮らしから、
蘭嶼島でのタオ族の価値体系に、だんだんと回帰していくなかで強調されるのは、本物のタオの男性として社会に認められるためには、食べ物(魚)を自分で海に潜って、もしくは舟を出して、獲ってこれることが不可欠ということ。これは島の近海の潮の流れについて、季節変動について、地形について、魚たちの行動についてなどなどを、経験的に知っていかないとできないことだし、スキルと体力も培わないとできないこと。そのうえさらに、森で木を伐って、自分の手で舟を作ることも、大きな大きな要素。。。(シャマン・ラポガンさんも年配の方々と一緒にタタラ舟をつくったのでした、生木を削って、鉄釘を使わずはめ合わせて作る舟)。

海から食べ物を自分で得ることは、たいへんな苦労と危険を伴うことなんだけれど、素潜り漁に長けてくるにつれて、シャマン・ラポガンさんはそれを「労働」として行うというよりも大きな喜びに浸るためにやるようになっていきます。そこが本当に興味深かった。海に完全に心を奪われてしまって、家族からは漁ばかりしてお金になる仕事をしないと嘆かれ、親には心配されて引きとめられるようになるのだけど、それらを振りきって海へ行く。。。

90年代初めの頃がこういうふうだったそうなのだけど、私がお会いしたとき(東京海洋大学で講演されたときだから2008年)も、まず最初にご自身のことを「作家もしていますが、毎日家族のために魚を獲っています、だから今は(自分が東京に来てしまってるから)妻子は魚を食べられていません」とおっしゃっていたのを覚えています。(魚とタロイモ・サツマイモがタオ族の伝統的な毎日の食事です)。

日々の糧を得ることが、自分のど真ん中のよろこびと直結しているって、すごいし、それをずっと継続していけているってすごい。。

お金を介さずに糧を得るとと、お金を得ること。これらについてよく考えているこの頃です。

どちらにしても透明性のある循環と、よろこびが、そこにあればいいのだろうな、と思う。自分も一ミリずつでも、そちらの方向へ、近づいて行きたいひ。

恥ずかしいの
20151030_233128でめったに人にサインなどもらおうとしないのだけど、シャマン・ラポガンさんには講演が終わった後、勇気をだしてそばへ行き、手帳にサインをもらいました。あれは今からちょうど7年前だったのかあ。。。初めて蘭嶼島をたずねた翌年だ。

自分からサインをもらった人はと考えると、あとはサティシュ・クマールさん、マイク・アボットさん、カジヒデキさん。

その人たちのエッセンスを自分の暮らしの端っこに、なんとか刻印したかったんだなあ。。。7年前に刻印したシャマン・ラポガンさんのエッセンスは今もちゃんと自分の中に残っているみたい。これからは、どうなっていくんだろう。

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2015.08.26

つながりの中から拾い上げてく

20150826_184131 今夜は夕暮れ過ぎに川べりを自転車で走ってたら、お祭り囃子が聞こえてきて、そしたら橋の上にぼんぼりをいっぱいつけたおみこしがいた。子供たちが太鼓を打ち鳴らして、大人たちが山車を引いていた。夕空の蒼にぼんぼりの灯が映えていて、きれいだった。笛のひびきも。一瞬時空をさらわれるような感覚になる、こういうとき。

さて、昨日会った(ふ)ちゃんから、以前わたしが好きだと言ってたアン・モロー・リンドバーグの本を読んだけどうんぬん、と言われ、え、その人知らないし、読んだこともないよ、(ふ)ちゃんそれは(ふ)ちゃんの夢の中での話だよ!と力説したら、(ふ)ちゃんと、あと一緒にその場にいた相方の両方から、なぜか逆に、その本を読むよう「夢」から呼ばれてるのはわたしのほうだ、という結論を出され。。。その本のタイトルは確かLife from the Seaだったなあ、と今朝起きぬけに思い出していました。

で、おととい行った、だいすきな鎌倉のカフェのトイレの中に張ってあった、「LIFE Sea」という、最近うちの近所にオープンしたらしいレストランのチラシも同時に思い出され。似ているな、本のタイトルとレストランの名前、と思ったのでした。

ということは、レストランに呼ばれている可能性もある、と考えて、翻訳仕事がたまってなくて久々の3連休目となった今日、行ってみちゃうことにした。

そこはちょうど、ちょっと前から気になっていた蔦屋書店というところに去年できたレストランでした(そうだ、そして昨日(ふ)ちゃんからは、この蔦屋書店もおもしろいから行くとよい、と強く勧められたのだった、彼女はこの近所に住んでいるわけではないのに、なぜかそこのことを知っていて)。初めて行く場所だったけど、行ってみたらば、いつもよく行く近所の植物園からほんのちょと先で、思っていたよりもずっと自転車圏内。こんなところにこんなのができてたとは、と驚く。。。

本とそのほかの生活雑貨(食品から身の回りの雑貨や衣類やまで)が有機的に混ざり合ってディスプレーされているおもしろい空間で、しかも買う前の本もゆっくり読めるソファや椅子がそこここにたっぷりあって、大変よいところでした。

20150826_171733 結構目立つところに、LGBT関連本特集のテーブルディスプレーなんかもあって。。奥のほうにはワークショップスペースや手しごとの作り手さんを応援するスペースなどもあり。。。レストランやコンビニやドリンクのカウンターなどが、本や雑貨の合間からふいと突然表れる。

で、LIFE Seaというレストランに入ってみました。居心地よく、お味もよくて、いいところだった。ホットコーヒーを飲んだのだけど、後でお店の中にあった冊子を見ていたら、ここのコーヒー豆を焙煎しているのが、あの鎌倉のカフェのオーナーだったのでした。なるほどそういうつながりがあったのか。

鎌倉の、ディモンシュという、あのカフェもそうなのだけど、ここLIFE Seaも、代表者の顔と名前がちゃんとわかって、何が好きでどういうことを大事にしてやってこうとしてるのかとかも、ほんのりわかる。非直接的にだけど、そういうことがコミュニケートされてる。こういうふうなのは、好きだな、と思った。

でもそれ以上は、ここに呼ばれた(?)意味は不明で。。。帰宅してから、今度はアン・モロー・リンドバーグを検索してみた。

そうしたら、彼女が書いたという、とっても気になる文章が出てきた↓

For Sayonara, literally translated, 'Since it must be so,' of all the good-bys I have heard is the most beautiful. Unlike the Auf Wiedershens and Au revoirs, it does not try to cheat itself by any bravado 'Till we meet again,' any sedative to postpone the pain of separation. It does not evade the issue like the sturdy blinking Farewell. Farewell is a father's good-by. It is - 'Go out in the world and do well, my son.' It is encouragement and admonition. It is hope and faith. But it passes over the significance of the moment; of parting it says nothing. It hides its emotion. It says too little. While Good-by ('God be with you') and Adios say too much. They try to bridge the distance, almost to deny it. Good-by is a prayer, a ringing cry. 'You must not go - I cannot bear to have you go! But you shall not go alone, unwatched. God will be with you. God's hand will over you' and even - underneath, hidden, but it is there, incorrigible - 'I will be with you; I will watch you - always.' It is a mother's good-by. But Sayonara says neither too much nor too little. It is a simple acceptance of fact. All understanding of life lies in its limits. All emotion, smoldering, is banked up behind it. But it says nothing. It is really the unspoken good-by, the pressure of a hand, 'Sayonara.

日本で暮らす身でありながら、「さようなら」とは、「左様なら(ば、仕方ない)」という意味だったと、初めて知った。「Since it must be so」と文字通り訳してあったおかげで、ああ、そうか、と。

リンドバーグさんは、この日本語の別れの言葉は、自分が耳にした世界のさまざまな別れの挨拶の中でも一番美しい、と言っていて、他の言語の別れの挨拶と内容を比べているのだけど、こういう感性を持ったリンドバーグさんに、関心が湧いた。

Giftfromthesea じゃあ、やっぱり彼女の本を読んでみるべきなのか、と思ってもういちどよく見たら、タイトルはLife from the Seaではなくて、Gift from the Seaだった。。。あれれ。。 ちなみに上記の文章が出てくるのは、彼女の別の作品、North to the Orient。このタイトルも、きれいだな。

両方とも、いつか読んでみたい本リストに、ほんのり加えておくことにします。さまざまな伏線とご縁をありがとう、(ふ)ちゃん。

(蔦屋書店の中で、もうひとつ、気になったイベントがあったのだけど、そちらのことは、まだ考え中。)

最近、どんなインプットを入れるかに、どうも慎重になっているみたい。ぼんやりしているせいもあって。でもここ数日は天国みたいに涼しくなって、だいぶんマトモに考えられるようになってはきてるけども、なんだか気を抜くと、やっぱりぼんやりがはじまるのでした。

* * *

ただ、ずうっと、楽しいはずのことをしても心が動かず、なにかをしようという意欲も湧かずだったのが、ちょっと上向いてきてるようではあって、おととい、近場の低山にハイキングにいってみたらば、想像以上に楽しかった。。とってもおおきな楠もいたし、樹齢750年のビャクシンの 木もいた、もう神話のなかの木みたいでした。Img_4119

食事中のりすにも会って、細い枝の上で宙返りして実をもいだり、となりの杉の木にとびうつって、後ろ足で幹に ぶらさがり、前足は両ひじをついて手に持った実をかじったり(おなかはぺたりと幹についてて、ちょうど床にうつぶせに寝転んで両肘をたててる人みたいなの が、バーティカルになったふう)、わたしからみるとどれも離れ業ばかり。でもりすにとっては樹上こそがホームで、くつろいだ自由な身のこなしは見ていてほ んとにあこがれた。

汗もかいたけど嶺を吹き抜ける風は涼しくて、快適で、あんまりあせベタにならなかったけど、でもハイキングしたら最後はお風呂で締めないと、と下山したところから一番近い銭湯に行ったら、古いけどこざっぱりときれいなとこで、脱衣かごが銭湯ではみたことないようなおおらかですてきな藤製のかごで、ロッ カーはなくて、お風呂のなかにはどどーんと本栖湖の絵。お湯がやわらかいな、と思ったの20150824_183328 で番頭さんに聞いてみたら、薪で沸かしてるからですよ、ガスと違っ てやわらかくなるんですよ、と、常連のおばさんとふたりで嬉しそうに説明してくださり。すごいですね、というと、またいらっしゃい、と。

いろんなありがたいことがあったのでした。有難い、の文字通り。。。

そうだ、そして、おととい、あの銭湯で使った、他では見たことがなかったすてきな藤製の脱衣かご。あれとおんなじかごが、今日、LIFE Seaでコーヒーを飲んだ時「荷物置きにどうぞ」と差し出されたのだったっけ。お手洗いは昔ながらのぽっとんで、湯沸かしは薪(銭湯横にうずたかく積み上げられた廃材たち)という、昭和15年(戦前だ。。)創業のあの銭湯と、去年オープンしたばかりのおしゃれなイタリアンレストランが、藤のかごでつながっていたのでした。おもしろいな。

ハイキングしてたとき、こんなして歩くだけでおもしろいんだから、いいねえと思ったけれど、ハイキングでなくても、近所をふらふらするだけでも、おもしろいことはあるもんだなあ。。

でもやっぱり元気が出たのは、なにより、山道の木々や動植物のおかげだと確信しています。そうだ、それも、今日行ったレストラン、LIFE Seaの代表者の相場さんが、お店の冊子に書いていた文章の中に似たようなことがあって、「お」と思ったのだったっけ。

ロンドンのPetersham Nurseriesというところへ彼が行ったときのお話なんだけど、この植物の巨大温室をそのままカフェにしたような場にいて、「とにかく心地いい」と言い、「植物=エネルギーなので、食事からとるエネルギーだけでなく、こうしても植物からも感じられるのはすごく贅沢。」と書いてらした。相場さんはそもそも、「外で元気に花や緑が生い茂る中で食事ができるレストラン」を夢見ていたそうで、その実現に向けて「1歩が踏み出されたような気がしています」とも書いていらした。

木々を眺めては「森林浴だ、森林浴だ」、鈴虫の声を聞いては「リンリン浴だ、リンリン浴だ」、蝉の声を聞いては「ミンミン浴だ、ミンミン浴だ」と、なんども相方とそんなことを言いながら歩いた山道。冗談みたいにいってたけど、ほんとうに、浴していたんだな。ありがとう、と思う。。。

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2011.02.19

緑の見取り図

あかい、あかり

つめたい、つめあと

ここにない、こころ

ひとつもない、ひとかげ

まわりまわる、真綿

いきできない、いきれない

いきできない、いきれない


なつかしい、なつのひ

せみのなく、セミサークル

てんじょうのした、てんになって

ただそこにいただけ

てんくうのした、てんになって

ただいきものだっただけ


空白を食う

YES

森の守びとの

NO

不均衡に、布巾をかけて

付近を駆け抜ける

わたしの綿菓子

走りながら、端をつまんで

投げては、嘆いて

投げては、嘆いて

「9台目の救急車も

入れなかった、排除された」


涙から、波ができて

海から、膿が出る



赤い垢

黒い苦労

浄化するJoker

風流なFool

カードのかどにある

印を知る

四角い視界の

端にある橋



灰の背後

横切る陽光

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2008.10.16

ミーハーなわたくし。。

Dscf0007_2ある作家さんの講演を聴きに行って、手帳にサインをもらいました。

ミーハーなことをしたなあと、しみじみ思いました。手帳を差し出して、「本、読みました。心に残りました。あの、サインください」

と、まるで高校生のようなノリで(というか今どきの高校生はこんなではないな、きっと。。一昔もふた昔も前の高校生という感じ。。)

サインをもらおうなんて、そもそも考えてもいなかった。「サインください」なんてことを口走ったのは、実は生まれて初めてかも。。

ただ、お話を聞いているうちに、今日という日と、この人という人を、自分の中に刻んでおきたいような気持ちになって、思わず「サインを」となってしまったのでした。

その人は、数ヶ月前に、講演のお話を打診されてから、実際に講演をするために日本にやってくるまでのあいだ、なにをしていたかといえば、毎日海に出ていた、と言っていました。漁をしていた、と。

一番元気だった頃には、素もぐりで水深32メートルまで行けていたそうです。

講演では、海洋民族の文化についてお話くださいました。舟のこと、漁のやり方、風の名前、潮の名前、星の話。。。そんなお話をいろいろ聞きました。

「人間と海」について学びたくて、外国の大学に行って人類学を専攻したけれど、欧米の人類学では、海洋文化についてはひとつも学べなかった、と言っていました。

「海洋民族」の自分なりの定義として「海に対する歌があれば、その民族は海洋民族だと思う」と言っていたのが印象的でした。

彼の島では、いくつか重要視されている星や星座があって、星座では魚座と蠍座、惑星では金星などがそれに当たるそうです。

金星は「太陽を寝かせるもの」という意味の言葉で呼ばれているとか。

風の呼び名にも、星の呼び名にも、どちらにも「シャイ(はずかしい)」というのがあったのが興味深かった。「シャイな風」は、来るのも早くて去るのも早い、西からの風。

暦も、数字の暦ではなくて、毎日にそれぞれ名前がついている暦があるそうです。

* * *

あなたの住む島には、若い漁師もいますか?日本では若い漁師が減ってきているのだけれど。という質問をされて、

「若い人も、島の男性は全員漁ができます。でも、あなたのいう『漁師』というのは、職業としての漁師という意味?」と聞き返していたっけ。

(「妻は、自分が今日本に来てしまっているので新鮮な魚を食べられないでいるんですね」とも言ってた。。)

あと、島の手漕ぎ舟に比較して、ヨーロッパのヨットについて話していたとき、こんなふうに言ってました。

「ヨーロッパのヨットは確かに速いけど、海に関する知識を失うのも速い。風の名前も知らないし、潮の大きさにも関心を寄せない。GPSが付いてるからね」

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