2010.06.29

希望のゆくさき

Img_6528 暑くなってきました。庭の植物の緑も、濃い色になってきました。

仕事が進まないのと体が痛いのとで、なかなかしんどいこの頃でしたが、鎌仲監督の新作「ミツバチの羽音と地球の回転」を先日ようやっと観ました。

「観ると希望を持てる」という声を聞いていたから、それを頼りに見に行ったのですが。。。

上映時間の途中で、喉がカラカラになり、しんどくなってしまった。。。

その前に食べたおゆうはんがいけなかったのかな、とも思うけれど、一緒に食べた相方はなんともなく。

上映後、なにか自分が深いダメージを受けているようなことに気づきました。

やっぱり取り上げているテーマがテーマだけに、なかなか大変な映画だったみたいです。自分にとって。。

上関原発のことは、こころをこめて祈ってきたことだけれど。そのことそのものよりも、それをめぐって対立する人たちの様子や、失われてしまう危機にある生き物みんなの豊かさを目の当たりにして、ショックでした。

それと、地域社会がエネルギー自立するモデルの1つとして、スウェーデンのエココミューン、オーバートーネオが取り上げられていたんだけれど、そこの「北極圏牧場」が、ショックでした。わたしはそこに、希望を感じることができませんでした。

牛たちはコンクリと鉄の柵にかこまれた牛舎にいて、上のベルトコンベアーからコンピューター制御された機械が食べ物である干草を落とし、足元のコンクリの上を、コンピューター制御された糞尿掃除用の棒が横切ります。乳牛は胸が張ると、自分から、乳搾りロボットの中に入っていって、機械にお乳を搾ってもらうのだそうです。乳搾りロボットまでの通路は、牛のからだに仕込んであるマイクロチップみたいなものが反応して柵の扉が開くというようなことでした。だから牛は「自由に動けるんだ」と牛舎の人は言っていました。

この牛舎をつくるために、地元住民が出資をした、そして機械の動力は風力発電による電気だ、というのがおそらくポイントだったと思うのですが。

みんなが力を合わせたすばらしさ、を思うけれども、でも、やっぱり悲しかった。

もっと小規模に、もっと各自が、暮らしを引き受けて、エネルギー問題を引き受けていくことはできないものかな。。。。。

規模を大きくして効率化しようとするときに、いつもなにかが狂う気がしてなりません。

*  *  *

映画の中で、わたしにいちばんの希望をくれたのは、祝島の氏本さんとこのブタたちでした。それと、60年やってもまだ潮は読みきれない、学ぶことがたくさんある、生涯現役だ、と語っていた、「一本釣り」をつらぬく漁師さん。

ブタたち、ほんとにかわいかった。大人のブタは耳が象のように大きくて、その耳をゆっさゆっさゆらしながら大地をかけまわって、土を鼻で元気にぐいぐい掘り起こして、氏本さんが家々から集めた残飯や、「味は一緒だけど見てくれのせいで売り物にならない」枇杷を、たくさんもらっておいしそうに食べていました。

子ブタもどろんこになってかけまわって、氏本さんのとこに来てはゴロンと横になってお腹をなでてもらってた。

放棄されていた耕作地を、このブタたちが鼻で掘り堀り耕してくれたおかげで、立派な畑がよみがえっていたのにもびっくり。

ブタってあんなにかわいいんだ、すごいんだ、というのが、この映画を見たいちばんの発見でした。

ハワイの、カマプアアというブタの神様を思い出していました。その貪欲さのおかげで一見土地がめちゃくちゃにされてしまうように見えるけれど、じつはそうして耕されることで、土は豊かになる。だからカマプアアは「豊穣の神」とされていました。

土を掘るブタさんたちの勢いったら。ほんとにすごかった! そして耳がかわいかった!!

やっぱりいちばんすてきなのは、電力でなく、体力。自分の。ブタさんの。自然の摂理の。

度を越さないかぎり、動けば動くほど、もっと力が出るようになったり、もっと元気になったりする、不思議な力。

そこにいちばん頼って生きていく方向へ、すすんでいきたい。そこを希望のゆくさきに、定めたい気持ちです。

 

(今こんなに体力がなくなって体が痛い自分がこんなこと言うのはあべこべだ、と激しく自覚しつつ。。。)

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2009.04.20

バオバブの木

Photo_2 『バオバブの記憶』という映画を、見ました。

監督さんは『アレクセイの泉』と同じ本橋成一さん。

西アフリカ・セネガルの村の暮らしの、ディテールのひとつひとつが、こころに沁みました。

青空の下でお料理。青空の下で、大きなボウルを囲んでみんなで食べるごはん。

朝のお風呂も、午後のお茶も、お昼寝も、珍しくテレビを見るときも、全部、空の下。

干した葉っぱの加工や、杵での脱穀作業、農作物の植え付けや収穫、牛追いなど、いろんな仕事も、みんな、空の下。

子供たちがすもうをとったり、枝で木の実を落としたりして遊ぶのも、もちろん、大空の下。

まるで、お空が、屋根のよう。

そして床は、きれいに葉っぱやごみを取り除いて、掃き清めた地面。

そうやって暮らす人たちを、バオバブの木は、ずっと守ってきたみたいです。

よじ登られたり、皮を剥がれたり、実を落とされたり、葉っぱを刈られたり、いろいろされても、おおらかにそこにいて、バオバブの精霊は人にやさしいのでした。

* * *

アワさんというお母さんが、とてもすてきでした。

Photo_3 ふくよかな体つきで、いつも、黒い肌に映えるカラフルで心地よさそうな服を着て、頭にもおそろいの布を巻いて、

大家族のごはんを作っているときも、気の合う第二夫人と一緒に歌いながら花摘みをするときも、双子の子供たちをゴシゴシ洗ってお着替えをさているときも、祭りの踊りの輪に入っているときも、いつも、おおらかに笑っているのでした。

祭りでは、2人の女性が向き合って踊るときの迫力が、まるで闘いをしかけているかのように見えたりしたんだけれど、アワさんの踊りはまったく朗らかで。。。

(写真ではすこしわかりくいけど、右端の白地の服を着ているのがアワさん)

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2008.11.13

嘘のあり・なしとは

お気に入りの下高井戸シネマで先日「ぐるりのこと。」を見ました。

わかりやすい感動ではない、言葉にならないことが、丁寧にたどられていく映画でした。上映後にとなりを見ると、鼻が真っ赤な人がいた(泣きすぎ)。でもわたしもおんなじだったみたいです。

橋口監督、すごい、とおもいました。男とか女とか、被害者とか加害者とか、いい人とか悪い人とか、同性愛とか異性愛とか、そういうわかりやすい分類を、ほんとうに越えてる視点がありました。

なにも安易に「昇華」しないし、かっこつけようとしたり、笑いをとろうとしたり、答を出そうとしたりといった、といった「作為」も通り越していて。

作り手に嘘のない映画だな、と思いました(映画っていうメディアは、そもそも存在自体が嘘なのに)。

役者さんの演技とかストーリーラインとかセットのディテールがどうこうってことじゃなく(それらもここまでやるかっていうほどリアルなんだけど)、なんか、なぜか、そういう次元ではない次元で、嘘くささがない感じがしました。

ほんの少し前の時代の「空気感」を再現していたところにも脱帽しました。今とははっきり違うような一昔前の時代よりも、まだ今と地続きの、ほんの数年前の時代の空気を再現するのは、ずっと難しそうなのに。。

予告編

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2007.10.30

ハロウィンといえば

今日の「ねこ温度計」(このブログの右側に載せさせていただいてる)は、ハロウィン仕様です。

ハロウィンが来ると、おばあちゃんとリバー・フェニックスのことを思い出します。2人ともこの時期に他界したので。。。

この時期は、おばけの世界がこちらの世界に一番近づくときだから、この時期に他界すると、ひょいっとあっち側へ行けてラクなのだ、というようなことをどこかで聞いて、「そうか、よかったな」と思ったのを覚えています。

リバーの命日は31日。彼の出ていた作品で、特に印象に残っているのは、『旅立ちの時』(過激な反戦活動のために指名手配されている両親を持つ息子役)、『リトル・ニキータ』(両親が実は秘密工作員だったことを知る息子役)、『モスキート・コースト』(現代生活を離れて中米のジャングルの中で暮らすことにした発明家一家の息子役)。いずれも、自分が置かれている特殊なシチュエーションに対応している彼には、独特のかげりのある存在感が立ちのぼっていました。

なんというか、けなげなのと、せつないのとが、ごちゃまぜというか。まあ、この存在感のてざわりは、『スタンド・バイ・ミー』の頃から一貫していたけれども。。。

デビュー作『エクスプローラーズ』から遺作『愛と呼ばれるもの』まで、考えてみるとリバーが出た映画は全部見ています。。。自分でも少しフシギ。そんなに好きだったっけな。。。(とこんなふうに昔を振り返っているのは、今水星が逆行中だからかな?)

遺作『愛と呼ばれるもの』は、意外とすきでした。どこがツボなのか自分でもわからないくらい、どうということもない映画な気もするんだけれど、カントリーミュージックがテーマになっていて、ナッシュビルが舞台で、「ギター1本持って、あとはなにも持たずに、音楽で生きていこうとする」みたいなドリーミングがあったところかな。。。

リバーも、ほんとにやりたかったのは芝居よりも音楽だったらしい、と聞いたこともあるし。。。

でも彼が出ている映画の中で、わたしの一番のお気に入りは、『マイ・プライベード・アイダホ』です。やはりせつないけれども、でも、この映画はいいです、絵がいいーーー。

目が喜ぶ映画でいうと、今まで見た(ほんとに限られた数の)映画の中でも一番映像にノックアウトされたのは、ゴダールの『愛の世紀』でした。不思議と内容はぜんぜん思い出せないけれど、絵は思い出せて。

ああ、もうそれは、こころに染み入るのでした。

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2007.06.11

ひめゆり

S400himeyuriposter001 「ひめゆり」という映画を、今日、パートナーと2人で見に行ってきました。

感じたことを、まだ、言葉にできそうもないです。

でも、ひとつだけ、それぞれの体験を、語る、伝えることの、力について。

書物や授業で習う、3人称の「客観的事実」ではない、ひとりひとりの、1人称の、体験は、

私の耳と心を、その「事実」へ、もっとちゃんと、開かせてくれました。

語ってくださった生存者の方たちに、
それから語らずにいる方たち、語れないでいる方たちにも、
それから、メディウム<媒体>として、声を運んでくださった監督さんにも、
深く、頭が下がります。

戦争というものを、概念、コンセプトでしか知らないのに、戦争ってどんなものかわかっているつもりでいた自分に、気づきました。

と同時に、数年前、プロセスワークのセッションを受けたときに、「戦後は終わっていない」という言葉に、胸の奥が激しくうずいたことを、思い出しています。知ろうとしてこなかった、ほぼなにも知らないはずの自分の、どこから、あの感覚が出てきたのか、わからないけれど、人は明確な意識上で教わっていないことでも、言葉にならない無意識な感覚として受け取っていることが、あるように思います。

情報としてハッキリしていないから、脇にやるけれど、でも実はずっとそこにある、というような。

それは、気づく、ということのエネルギーを注がれるのを待っている、意識の物陰の部分なのかも。。

生存者の方たちの証言は、明るく強く、そのエネルギーを注いでくださっているように思います。

■長編ドキュメンタリー映画「ひめゆり」(2006)
共同製作:財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会
製作・配給:プロダクション・エイシア

監督:柴田昌平
東京・ポレポレ東中野で公開中

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2007.04.06

「そういうことじゃないんじゃないか感」

ここのところ、カンヅメで仕事をすることが続いたせいか、すっかり足腰が弱ってしまいました。思えば、1日中家にいるので、家の中を数歩歩くくらいしかしていないのでした。昨日、ひさびさに遠出をしたら、かばんを持って半日過ごしただけで、今日は右肩が筋肉痛です。。。ああどうしよう。

あいからわず体調も不安定。みぞおちの奥にぽっかり穴があいている感覚です。そしてちょっとした気候の変化が、ずいぶん大きく体にこたえます。

こんなに体が弱った感覚を持ったのは、たぶん、生まれて初めて。今までは、なにがあろうと、(悩んで悩んで死にたくなっていても)、体だけはピンピンしていて、頑丈だったのです。

なにか大幅な変化が起きているのは、わかるのだけれど、変動がありすぎてちょっとあわあわしています。ただ、もしかすると、これは、環境に対して体が開いてきた、ということでもあるのかな、とも思います。閉ざした状態で良好に維持する、というのは、鎖国したまま安定を保つようなものかもしれない、とか。。。

でも、こんな体調なのに、このところ、またダンスに戻ってみたい気がし始めている自分が、うーむ、信じられません。。。とうてい無理だよなー、という気持ちもあります。

なのだけれど、昨日、大野一雄さんのドキュメント映画「ひとりごとのように」を見に行って、なにか、漠然と、「そういうことじゃないんじゃないか感」を抱きました。

この映画、大野さんが95歳のとき(2001年)のドキュメントです(現在は100歳)。大野さんは2000年に公演で腰を壊してしまわれて、以来、ひとりで立って踊ることはなくなりました。椅子に座って、とか、床に座ったりつっぷしたり、とか、息子の慶人さんに腰を支えてもらって立って、とか、そんなふうにして踊ります。

映画のワンシーンで、「もう踊らなくてもいい、と言われた。もういいですよ、どうぞ家へ帰ってください、と。それはなぜなのか、私は知りたい。私は踊るために、山を登ってここ来た。私は、踊りたい。なのに、踊らなくていい、と言う。それはなぜなんだ? こうやって(腰を)支えてもらっているからなのか?」と、言葉にも支障が出始めていた大野さんが、ずいぶんハッキリと、言うところがありました。

腰を支えてもらって立ち上がったときの、大野さんの一瞬の身振りに、圧倒された瞬間がありました。

あきらかに、体の輪郭からはみだして、はちきれる、なにかがありました。自己完結からはほど遠くて、それはなにか、自分というものの比率がとても小さいからのように見えました。自分というものが、ダイヤモンドのように硬くしっかりとそこに確かにあるのだけれど、その大きさは、比率としてとっても小さい、なぜかそんなふうに、感じられました。

■ドキュメンタリー映画「大野一雄 ひとりごとのように」(2005年)
ポレポレ東中野で公開中。くわしくは↓
http://www.queststation.com/oono/

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2007.01.30

バグダッド ・ カフェ

大学生のときに見て以来、久しぶりにこの映画を見ました。

ずっと前に一度見ただけなのに、自分の中では「好きな映画のオールタイムトップテン」の上位にランク入りしていたこの映画。昨夜、パートナーと一緒に見ていたら、あらあら、大学生当時にはわからなかった深みがあったことを発見。

当時はなんにもわからないままに見ていたのだなーと実感しました。それでも好きだなーと思ったんだなあ、と。主題歌の「Calling You」とか、全般にオレンジ色がかった映像とか、マホービンが微妙におのずと動くところとか、そういうところが気に入っていたのかな。。。

でも今回は、なにより、映画のラストの台詞にぐっときました。あー、すてき。

ジャスミンがブレンダの娘、フィリスの手のひらを見るシーンもよかったな。

映画って、噛めば噛むほど味のでる「スルメイカ現象」とでもいうものがあるのですねー。。。

バグダッド・カフェ
出演:マリアンネ・ゼーゲブレヒト
監督: パーシー・アドロン
1987年(完全版)、西ドイツ作品。

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2006.12.02

下高井戸シネマ

「トランスアメリカ」という映画を見に、下高井戸シネマへ行きました。いい時間でした。

下高井戸シネマは、独立系のちいさな映画館です。うちからだと、電車を乗り継いで、最後は「せたまる」という都電に乗って、下高井戸駅で降ります。日ごろあまり都電に乗らないので、「せたまる」に乗るとそれだけでわくわくします。

下高井戸の駅前の商店街も、とても気に行っています。にぎにぎしすぎず、さみしすぎず、ほどよい感じです。

下高井戸シネマは、ロビー一角に売店があって、そこの腰高のショーケースの中には箱入りのお菓子なんかが売っていて、そのとなりにはアナログカメラが並んでいたりします。そのショーケースの向こう側に、売り子さんがいます。

ロビーには、いろんな映画評の載った雑誌が並んでいたり、映画関連の新聞記事の拡大コピーが壁に貼ってあったり。手づくり感があって、町並みと同じく、ほどよい空気感で、居心地がよいです。

中は、銀鼠色のぶあついカーテンがスクリーンを覆っていて、上映時間になると、そのカーテンがすいーっと横へ引かれていきます。

上映作品のラインナップも、とっても魅力的。前回はここでフェルナンド・エインビッケ監督の「ダック・シーズン」というメキシコ映画を見たのだけれど、これはわたしのオールタイムベスト10映画の1つになりました。

今気になっているのは、ここで12月にある「フランス映画社配給BOW("Best Of the World"の略)映画祭」で上映される、タルコフスキーの「サクリファイス」とアンゲロプロスの「旅芸人の記録」。「旅芸人の記録」はなんと4時間近い作品で、途中で10分の休憩が入るらしい。師走の気ぜわしいときにあえて、半日を映画館で過ごすのもいいかもなあ、と。。。

http://www.ne.jp/asahi/kmr/ski/shimotakaido_cinema.html

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